松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

出雲人にとって気になるいつから「出雲」だったのか!

2018年09月10日 11:22   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。ここのところめっきりと秋を感じるようになって来ました。もう30℃超えもないかなあ!
さて、「出雲」はいつから「出雲」だったのでしょうか?地元に住んでいても気にする人は少ないと思いますがそこはそこで気にする私です。
実は相当前から「出雲」と呼ばれていたらしいのです。相当とは古代のずっと昔という事です。日本でまだ文字らしい文字が浸透していない時代のことで、はっきりしたことは分からないというのが答えなんですが、、、。
出雲の遺跡である荒神谷や加茂岩倉の両遺跡から出た大量の青銅器を目の当たりにすれば、弥生時代にかなりの力を持った勢力がいたことは、誰でも想像はつきます。ただしそれを「出雲」と呼んでいいのかは、別の話です。
その青銅器群が並ぶ出雲市の古代出雲歴史博物館で、面白い企画展が開催されています。そのテーマは、「古墳は語る 古代出雲誕生」です。島根県東部としての「出雲」の枠組みができる過程を、考古学の立場から丁寧に追ッています。古墳時代後期の6世紀。巨大な前方後方墳をまつった現在の松江市周辺と、ヤマト伝来の前方後円墳を築いた出雲市周辺の二大勢力が、徐々に一つの「出雲」になっていきます。会場ではその過程を遺物の特徴などからひもといています。宍道湖を挟んだ東西の地の競争が1500年前にも垣間見えるのは、非常に興味深いところです。
倉吉市で出土した出雲式の子持ち壷(つぼ)や、米子市淀江町で見つかった入れ墨のある武人のはにわなど、鳥取県の遺物も数多いですね。また、大国主命の奥さんは沢山いたのも周知するところですが、西は福岡県から東は新潟県までいたといいます。日本海側はほとんどが出雲の国の勢力下だったとも考えられるのです。古代出雲は、島根県東部に限られたブランドではないのかもしれませんね。まして出雲国と伯耆国など同じ国のようなものだったのかもしれません。
こんな事に興味があるのは私だけでしょうか・・・。


 



今年の秋は、バスマップすごろくを各イベントで出展します!

2018年09月06日 15:19   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。台風21号と北海道自信と災害続きです。被害を受けられた方には心よりお見舞い申し上げます。
さて、NPO法人プロジェクトゆうあいでは、バスに関係した各種のグッズを作成・販売をしています。今年の秋は、バスマップすごろくを各イベントで出展します。


9月23日(日)ひろしまバスまつり9:30~15:30広島中小企業会館(広島市西区商工センター1-14-1)


※縁結びバスマップの配布、バスマップすごろく各種販売、どこでもバスブック松江の販売、巨大バスマップすごろく体験会を実施



9月30日(日)スルッとKANSAIバスまつり10:00~16:00岡崎公園(京都市左京区岡崎最勝寺)


※縁結びバスマップの配布、バスマップすごろく京都版販売、どこでもバスブック松江の販売を実施



10月20日(土)バスまつりin松江 10:30~15:00くにびきメッセ(松江市学園南1-2-1)


※縁結びバスマップの配布、バスマップすごろく各種販売、どこでもバスブック松江の販売、巨大バスマップすごろく体験会を実施



11月4日(日)2018松江市環境フェスティパル 10:00~15:00くにびきメッセ(松江市学園南1-2-1)


※縁結びバスマップの配布、バスマップすごろく各種販売、どこでもバスブック松江の販売、巨大バスマップすごろく体験会を実施


お近くのイベント会場で、皆さまのお越しをお待ちしています。


お問い合わせは下記まで。   
NPO法人プロジェクトゆうあい
  〒690-0888 島根県松江市北堀町35-14
  TEL 0852-32-8645 
FAX 0852-28-1116



松江松平藩7代藩主・松平治郷はこうして殿様教育を受けました

2018年09月03日 10:37   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。明日からは台風21号の影響が心配ですね。8月31日~9月2日にかけては、松江市にて日盲連女性部の全国大会が盛大に開催され、我が山陰バリアフリーセンターとしても多くの皆さんのバリアフリー観光のお手伝いをさせていただきました。
さて、松江松平藩7代藩主・松平治郷(号・不昧(ふまい))は、江戸後期の大名茶人として広く知られています。文武両道で、藩財政を立て直した。名君として歴史に名を刻んだ背景には、殿様の教育係を担った藩士の苦悩があったようです。
没後100年に合わせて松平家が出版した「松平不昧伝」からうかがえます。不昧はとても賢いけれども、10代の多感な青年期に血気旺盛すぎて過ちを犯した。「育て方を間違うと大変なことになる」と周囲を心配させました。松江藩は、不昧をどうしても名君に育てなければいけない訳があったのです。
父・宗衍(むねのぶ)の時代に藩財政が行き詰まり、江戸では1両も借りられず「松江藩はいずれ取りつぶし」と言われていました。つぶれれば藩士の暮らしは立ちゆかなくなります。教育係が出した知恵は、心静かに勉学と修身に励んでもらうため、茶道と儒学を勧めました。これが合い、人生の転機となりました。
14歳で将軍徳川家治にお目見えし「治」の文字をもらい、17歳で藩主に就きました。不昧は生涯をかけ茶の湯を極めました。同時に室町時代から名品とされた茶道具を収集し、貴重な文化遺産として保護しました。茶碗(ちゃわん)の名品を藩の陶工に見せて作らせることで、伝統文化を継承するとともに陶芸や茶と菓子の生産といった次代の藩の産業を育てました。
今年は没後200年と記念すべき年にあたります。
9月7日から松江歴史館で、同21日からは島根県立美術館でも企画展が開催されます。殖産興業によって藩の難局を打開した政治家、茶道を通じ人材を育んだプロデューサー。そんな不昧の多面的な実像を見つめる好機となります。この機会に是非、ご覧下さい!



あなたは花咲かじいさんから名にを学びますか?

2018年08月28日 13:52   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。今週に入りやっと猛暑美から逃れた松江市です。
さて、「花咲かじいさん」という昔話をご存知の方は多いと思いますが、このお話には、単なる昔話で正直者は成功するという事だけではありません。
そのお話はこうでした。
昔、正直者のおじいさんが犬を飼っていた。その犬が吠えたところを掘ると、大判小判がざくざく出てきた。
それを見た隣の性悪じいさんが犬を強引に借り、吠えたところを掘った。すると出てきたのはがらくたで、怒った性悪じいさんは犬を殴り殺してしまった。
悲しんだ正直じいさんが犬を手厚く葬ると、翌朝、その墓から大木が育っていた。正直じいさんはその木で臼と杵を作り、もちをついたら宝物が出てきた。
性悪じいさんはその臼と杵を強引に奪ってもちをついたら、出たのは石ころばかり。性悪じいさんはまたしても怒って、臼をたたき割り燃やしてしまった。
正直じいさんがその灰を持ち帰ると、風に舞って枯れ木に花が咲いた。そこで「枯れ木に花を咲かせましょう」と、通りかかった殿様の前で花を咲かせ、喜んだ殿様からほうびをもらった。
性悪じいさんもほうびをもらおうと灰をまいたが、花が咲かないどころか灰が殿様の目に入り、性悪じいさんは家来にボコボコに殴られた。
という話でした。
常識的に読めば「正直者には良い結果が起き、性悪だと悪い結果になる」という話に帰結してしまうのですが、それは表面的な見方に過ぎません。
貧しくなる人は「正直者は報いられるはず」という思い込みがあるため、正直に生きることが尊いと考えます。もちろんそれは間違っている訳ではありません。
もう少し深く読み取って見る事にします。
たとえば、「性悪じいさんは正直じいさんと同じことをしているのになぜ、ことごとく裏目に出るのか?」といった疑問です。
性悪じいさんが考えなかったのは、「ものごとの本質は何か」です。
「花咲かじいさん」の物語では、「正直じいさんが何をしたか」ではなく、「周囲は正直じいさんの何を評価しているのか」を想像することです。
性悪じいさんはそこを考えず、表面だけをマネしただけなのです。
たとえば飼い犬にさえ思いやりを持って接することは「情けは人のためならず」という教訓に落とし込めます。まずは先に与える人になろうというわけです。
「墓から木が生えた」と単に状況を傍観する追随者や傍観者で終わるのではなく、加工して道具に変えるという状況判断力があったからだと捉えることができます。
殿様からの褒美をもらおうとするのではなく、花を咲かせて喜んでもらおうという貢
献の姿勢が重要であるという教訓に落とし込むことができます。
そう考えればこの話は、「正直かどうか」という単純な話ではなくなります。
昔話もこんな風に考えればなんとまあ、疲れますね。



江・大橋川で亡き人思い灯籠流し!

2018年08月20日 13:12   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。今年のお盆は台風と2歳男児の行くえ不明事件が印象に残りました。ボランティア伯父さんは何回もテレビに搭乗し発見時の状況を語ッてくれました。
ボランティアで捜索し、土地勘のない地でわずか30分で保護しました。それまで警察や住民が3日間かけて捜しても発見に至っていなかった捜索方法はシンプルそのものでした。「子どもは上に登るもの」。この見立てに沿って男児の名前を呼びながら山に入り、沢の近くで座り込んでいるところを見つけました。
今回の行動原理は長年の人助け活動で得たものといいます。勘が鋭くなるのは長嶋氏がそうであるように経験値と思考を積み重ねた結果なのでしょう。ミスター・ボランティアによる胸のすく救出劇でしたね。彼はすぐに、広島の災害地に向かい家の中の土砂を出している映像がありました。この元気さは一体どこから湧いて来るのでしょうね・・・。
さて、お盆に迎えた先祖の霊を送る「灯籠流し」が16日夜、松江市の大橋川で行われました。テレビ番組では長崎の花火や爆竹でにぎやかに霊魂を送るというのとは真逆なのが松江の燈籠流しです。
淡い緑や黄など色とりどりの灯籠がほのかな光を放ちながら川面をゆっくりと流れ、多くの人が見守りました。
そもそもは、松江市の寺院でつくる松江仏教会が終戦後、戦争で亡くなった人を弔ったのが始まりで、毎年営まれています。
今年も午後7時頃、松江大橋の南詰めで僧侶たちが供養のためのお経を唱える中、川に並んだ船19隻から、約2000基の灯籠が流されました。
松江ならではのお盆の風物詩となっています。通行人も思わず手を合わせて厳かな気分になります。