江戸に残る松江藩・赤坂御門内の上屋敷
ハダル@矢野です。桜は咲くには咲きましたが季節は冬に逆戻りの松江市です。、
さて、江戸時代にあった松江藩ゆかりの建造物は、これまでに火災、地震、空襲、都市開発で壊滅的な被害を受けました。現存する史跡は皆無に近いですが、探してみるとあちらこちらで面影を垣間見ることができます。今回は、東京に残る松江藩ゆかりの地と品々を訪ねる。
日本の政治の中心地・千代田区永田町にある衆議院議長公邸。ここは隣接する参議院議長公邸とともに元は松江藩の上屋敷があった場所で、上屋敷は松江藩の江戸における本宅。藩主とその家族が住んでいました。また、藩の総合事務所的機能も果たしてきた場所です。
江戸の切り絵図で見ると、上屋敷があった場所は赤坂御門を入ってすぐ右。近くには紀伊、尾張など徳川御三家の名前が記された屋敷が見えます。この地域は赤坂御門内と呼ばれ、江戸城に近く、親藩や譜代、幕府の重臣が屋敷を構えていた特別な場所でもありました。
江戸時代、大名は江戸にいくつもの屋敷を所持していました。松江藩にも分かっているだけで、赤坂の上屋敷をはじめ計十二カ所の中屋敷、下屋敷、お抱え屋敷がありました。
7代藩主治郷(不昧)の時代、二万二千坪の敷地に十一の茶室があったことで知られる品川大崎の下屋敷もその一つです。しかし、他の屋敷と同様に、それを現代に伝えるのは古地図や古文書、遺品、出土物だけです。その中で唯一、遺物が現地に残っているのが、赤坂の上屋敷があった場所です。
衆院議長公邸内に残っているのは「徳川家康駿河城内居 金水輪 慶長十三年戊申四月大安日」の文字が刻印された井戸枠。徳川家康が駿河城(静岡県)で使っていたものを直政が拝領し、ここに移して使っていたと伝えられています。
一枚岩をくりぬいた石製の枠で大きさは二メートル四方。重さ約二トン。井戸は明治以降、閑院宮家があった昭和まで使用されていたといわれていますが、地下鉄やビル工事、議長公邸の改築もあって現在は井戸枠だけが残っています。
上屋敷からは富士山や秩父の山並みも見渡せたといいます。庭では句会や宴が開かれ、庭にはその名残ともいえる富士山の形をした句碑が今に残ります。衆院議長公邸は富士山が見えるということで、参院議長公邸より狭くされたという話はよく知られていますね。
大名屋敷のほとんどは一六五七(明暦三)年、俗に「振袖火事」とも言われる「明暦の大火」で焼失してしまいました。松江藩の上屋敷もこの後、現在の場所に建てられた。多数あった屋敷の中で幕末まで場所が変わらなかった屋敷でもあります。
歴史好きの私には是非、行って見たい物の一つですね。