松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

「出雲弁は下等社会で使われる言葉・・・」と書かれた教科書があった!

2026年03月25日 15:37   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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盲導犬アリア@矢野です。
今月末で、「ばけばけ」は、放送終了ですが、以下のような事件がありました。
学校では出雲弁NG!?でした。
「だんだん(ありがとう)」「ばんじまして(こんばんは)」など、
世代を越えて地域住民に親しまれている出雲弁です。
かつては出雲弁を標準語に直す「撲滅運動」とも呼ぶべき矯正教育が行われていました。
150年前の1873(明治6)年の学制発布と同時に始まった小学校の歴史を、
その中で、1888(明治17)年に出版された「出雲言葉のかきよせ」という本があります。
この本は1884(明治13)年に、教師が自主的に組織した島根県私立教育会が発行し
尋常小学校などで使われたと考えられる教本です。
出雲弁を矯正することを目的とし、内容は出雲弁の言葉を「標準語」にした内容が書かれ、
副読本として使われていました。

『出雲言葉のかきよせ』の内容は、こうです。
訛言の部、方言の部、甲乙の対話の三つの単元に分けられています。
本文では、我らが出雲弁を衝撃の言葉で表現していました。
「本書には雲州言葉と普通の言葉を比べて改良する目的があり、
雲州言葉(出雲弁)は下等社会で使われる言葉と知るべし」。
なんとも失礼な話です。
「下等社会」とはまず何かを問いたいところですが、とにかく出雲弁を使うことを
「恥」と思わせたい意図を強く感じるものです。

訛言の部では発音の矯正がテーマのようです。
出雲地方では「う」が「た」となまり、ウシのことを「たし」、ウサギのことを「たさぎ」と呼び、
「つ」が「ち」になまり出雲(いづも)を「いぢも」、松江(まつえ)を「まちえ」と
発音してしまうと例を挙げて発音の特徴を説明。
こういった発音の「誤り」を学び、「努めて普通の言葉を使うように」と呼びかけています。

方言の部では、言葉(単語)がテーマで、出雲弁の言葉とそれに該当する標準語が記されていました。
「転ぶ」の項では雲州では一般に「まくれる」と言い、例に挙げれば限りがありません。
出雲に観光に来られたら、数多くの出雲弁に遭遇されると思います。

「ばけばけ」でも島根県知事約の佐野史郎は、流暢に使っていますが、・・・。
どうなんでしょうね!








小泉八雲(へるんさん)のこぼれ話です

2026年03月12日 13:56   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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盲導犬アリア@矢野です。

3月に入り花粉も飛び回っている松江市です。

ばけばけも今月末で放映は、終了しますが、それからもへるんさんでもちきりの松江市です。
おときさんの「サンキョウ」とヘブンさんの「願います」は、流行語になっています。

今日もへるんさんのお話です。
小泉八雲(ラフカディオ ハーン)は、松江では、「へるんさん」と呼ばれていました。
松江に赴任した時の辞令書の名前が「ラフカディオ ヘルン」と書かれていたそうです。
当時の島根県の役人も相当の英語力だったと想像します。
だからこそ外国人の英語教師を招いたんですね。
失礼しました。
八雲は、「へるん」が気に入りその後は、自分でもそう言っていたそうです。
「小泉
八雲旧居」は少し前までは「ヘルン旧居」と呼ばれていました。
あと「へるんヨウカン」が思いつきます。
八雲が好んだようかんで、東京へ行ってからも取り寄せるくらいだったそうです。
甘さ控えめのわりとさっぱり感があります。
また、晩酌は、ビール大びん1本だったそうで、毎日女中さんが、買いにこられていた。
と、江戸時代から薬局をされているお店の方から伺いました。
当時は、ビールは薬局で売られていたのも驚きです。ちなみに銘柄はアサヒです。
ところで、八雲は、旧制松江中学の英語教師として赴任しました。
その時の月給は、100円でした。
これは、県知事の次に高い月給でした。
その後、熊本の五高では、松江での倍学の200円でした。
家賃は11円。
校長の年収が1800円だったそうですから、八雲のほうが多くもらっていたわけです。
ちなみにその時の校長は、あの柔道の加納治五郎でした。
少しミスマッチな感じがします。
八雲は、松江でセツさんと結婚しましたが、実家に仕送りをしていたそうです。
給料が安いので、松江は住みやすかったが、仕方なく転勤(?)という噂もあります。
やっぱり、へるんさんも背に腹はかえられなかったようです。
その後は、神戸を経て、東京大学では、450円の月給をもらっています。
とんとん拍子に出世したようです。

このようなお話を聞きながら、へるんようかんを味見したり松江をおちらと歩きをしています。
「水あめを買う女」などの怪談噺を聞いたあとのお墓に行って帰るなどは、ご勘弁です。

以下に「飴を買う女」を引用しておきます。

「飴を買う女」
中原町にある大雄寺の墓場にはこんな話がある。
中原町に、水飴を売っている小さな飴屋の店があった。
水飴というのは、麦芽からつくった琥珀色の糖液で、乳のない子あたえるものである。
この飴屋へ、毎晩、夜が更けてから色の青ざめた女が白い着物を着て、水飴を一厘買いにくる。
飴屋は、女があんまり痩せて、顔の色が悪いものだから、
不審に思って親切にたびたび尋ねてみたが、女は何も答えない。
とうとう、ある晩のこと、飴屋は物好きに女のあとをつけて行ってみると、女が墓場へ帰ってゆくので、
飴屋は怖くなって家へ戻ってきました。
そのあくる晩、女はまたやってきたが、その晩は水飴は買わずに、飴屋に自分と一緒に来てくれといって、
しきりに手招きをする。
そこで飴屋は、友達と語らって女の後について墓場へ行ってみた。
とある石塔のところまでくると、女の姿がぱっとかき消えた。すると地面の下から、
赤児のなき声が聞こえる。
それから、みんなして石塔を起こしてみると、墓の中には、毎夜水飴を買いに来た女の骸(むくろ)があって、
そのそばに、生きている赤児がひとり、差し出した提灯の火を見て、にこにこ笑っていた。
そして、赤児のそばには、水飴を入れた小さな茶碗がおいてあった。
この母親はまだほんとに冷たくならないうちに葬られたために、墓の中で赤児が生まれ、
そのために、母親の幽霊が、ああして水飴で子供を養っていたのである。
――母の愛は、死よりも強いのである。
(出典 平井呈一訳「小泉八雲作品集」)