ハウル@矢野です。
今年は仲秋の名月は9月27日でした。満月は翌日の28日だったようですね。
全国的には良いお天気でしたのでご覧になった方も多いと思います。
こちら松江市にもお月見の名所があったのです。地元の松江市民でもあんまり知っている人は少ないかもしれません。それは、宍道湖の北岸にあります満願寺です。南側にはすぐに宍道湖があり向こう岸には玉造温泉のほぼ正面に当たります。周りにはどちらを向いても田園風景で少し小高い山の上に位置しています。中世には山城があったようです。
今は空を見上げてお月見をしますが昔は直にお月さまを見る事よりも行けや海など水に映る月とセットになる場所が名所となったようですね。
これは、平安時代から貴族の間で詩歌が読まれだした事や風流を愛した日本人に行きつくところが大のようです。
全国的にみても宮城県の松島、高知県の桂浜、京都の渡月橋などは顕著にみられる傾向ですね。
ところで、お月見の日は旧暦の8月15日が有名ですね。これは中国から遣唐使が伝えたものと言われています。日本独自の風習は、9月13日のようです。
十五夜から約1か月後に巡ってくる十三夜は、十五夜に次いで美しい月だといわれ、昔から大切にされていました。長野県安曇郡その他で小麦の名月といって,この夜の天気によって,翌年の農作の豊凶を占う風習があります。
ここでお月見のマナーというか仕方を少し調べて見ましたのでご紹介します。
まず、月から見える位置にお供えを用意します。十五夜だけでなく十三夜もお月見をします。健康と幸せを願う月見団子は家族で頂きます。
十五夜または十三夜のどちらか一方のお月見しかしないことを「片見月」と呼び、縁起が悪いといわれています。 また、十三夜には栗や枝豆を供えることから「栗名月」「豆名月」ともいいます。
では、十三夜の由来はどうなんでしょうか?
月を観賞する風習と豊作祈願や収穫感謝の祭事が合わさって広まったものと考えられます。古来より月と太陽は陰と陽の象徴であり、月はお陰さまの心に通じると考えられてきました。収穫物は生きる糧ですから、支えてくださる物事や力添えに対し、お月見をしながら感謝をします。
では、正式な十三夜のお供えものは
★月見団子
十三夜にちなんで13個お供えします。
★秋の農作物や果物
この時期に収穫を迎える栗や豆類などをお供えします。
★ススキや秋の七草
本数に決まりはなく、すべてを揃える必要はないようですが、ちょっとだけでもお供え物のちかくに飾ってみましょう。
お供え物の中にお酒はないようです。少し不思議な気もしないでもありませんね。
それでは、十三夜も良いお月見が出来ますようにお祈りします。
ハウル@矢野です。
まだ9月中旬だというのに、今秋は早足でやって来たのでしょうか。秋が長ければそれだけ過ごしやすくまた外へ出かけてみようと思う気分になります。
最近になり9月の連休を「シルバーウイーク」などと呼んでいる方が多いですね。
マスコミに踊らされているだけなの?それは、今年だけの事でしょうか。
2001年までは9月15日が「敬老の日」として国民の休日となっていました。
2002年からはハッピーマンデー制度により敬老の日が9月第3月曜日となりました。
この時期を「シルバーウィーク」と呼称するのは「ゴールデンウィーク」に類似する要素があることは、簡単に想像出来ます。テレビやインターネットなどで報道され、国内外ツアーを企画する旅行代理店などがこの言葉を使い始め一気に定着した模様です。
何はともあれ、お休みが多いのは良い事ですね。
問題は秋分の日が何日になるかがポイントのようです。9月21日~24日の間になるようです。次の「シルバーウイーク」の5連休は2026年その次は2037年となるようです。行楽週間という意味より敬老週間と理解すればよいのかもしれませんね。
こちら松江では、すでに行楽シーズンに突入した模様で、松江城を中心とした観光施設は多くの観光客の姿が見られます。
秋の松江は夜がいいようですよ。松江城や宍道湖に浮かぶ嫁が島のライトアップや水灯路で武家屋敷のある塩見縄手など風情を感じて下さい。
また、夜間運行の堀川遊覧船も昼間と違うロマンチックな気持ちにもなる事でしょう。その後は、ゆっくりと温泉につかり松江の銘酒を飲んで・・・。寿命が一層のびる気がします。
是非、秋の松江にいらしてください。
ハウル@矢野です。
この間の台風18号は思わぬ傷跡を残しました。
未だ避難所で不安な日々をお過ごしの方もいらっしゃると思います。心よりお見舞い申し上げます。
さて、今朝などは最低気温が15℃を下回るほど過ごしやすくなった松江市です。
昔から伝えられている民話でも各地方で全く違ったお話になっているのをご存じでしょうか?
例えば、「来年の事を言うと鬼が笑う」です。
むかしから、来年の事を言うと鬼が笑うといいます。
一般的には人生一寸先は何が起こるか分からないのに壱年先のことなどエンマ様でもわからないのに一般人がわかろうはずもない・・・と言うふうに理解している方がほとんどではないかと思います。
ところが島根県では少しではなく大きく食い違っています。
それには、こんなわけがあるのです。
ここからは引用です。
むかしむかし、とても強いすもうとりがいました。
ところが突然の病で、ころりと死んでしまいました。
人は死ぬと、えんま大王のところへ連れていかれます。
生きている時にいい事をした者は、楽しい極楽へ送られます。
生きている時に悪い事をした者は、おそろしい地獄へ送られます。
えんまさまは、すもうとりに聞きました。
「お前は生きている時、何をしていた?」
「はい、わたしはすもうをとって、みんなを楽しませてきました」
「なるほど、そいつはおもしろそうだ。よし、お前を極楽に送ってやろう。だがその前に、わたしにもすもうを見せてくれ」
「でも、一人ですもうをとる事は出来ません」
「心配するな。ここには強い鬼がたくさんおる。その鬼とすもうをとってくれ」
えんまさまは、一番強そうな鬼をよんできました。
相手が鬼でも、すもうなら負ける気がしません。
すもうとりはしっかりとしこをふんでから、鬼の前に手をおろしました。
鬼も負けじとしこをふんで、手をおろしました。
「はっけよい、のこった」
えんまさまが言うと、すもうとりと鬼が四つに組みました。
鬼は怪力ですもうとりを押しますが、でも、すもうとりは腰に力を入れて、「えい!」と、いう声とともに、鬼を投げ飛ばしました。
投げ飛ばされた鬼は岩に頭を打ちつけて、大切な角を折ってしまいました。
「ああっ、大切な角が」 角が折れた鬼は、わんわんと泣き出しました。
「こらっ、鬼が泣くなんてみっともない!」
えんまさまが言いましたが、でも鬼は泣くばかりです。
困ったえんまさまは、鬼をなぐさめるように言いました。
「わかったわかった。もう泣くな。来年になったら、新しい角が生えるようにしてやる」
そのとたん鬼は泣きやんで、ニッコリと笑いました。
そんなことがあってから、『来年の事を言うと鬼が笑う』
と、言うようになったそうです。
コッポシ(話の最後に言う言葉で「おしまい」という意味です。
ウソみたいなホントの話です。
ハウル@矢野です。
味覚の秋ともなれば食欲は増すばかりですね。
ここ出雲地方では中山間地の棚田で生育したお米とそばではないかと思います。
棚田は、そもそもたたら製鉄で山を削った後を水田としました。通常では山の頂上近くには水がありませんので水田にはなりませんが、ここ奥出雲ではため池や水の利用が後跡出来るようにしたからこその棚田なのです。
また、出雲地方の食文化の一つである「出雲そば」は、その最大の特徴は、従来のそばと比較して黒っぽいそばとその食べ方にあります。
通常そば粉をつくる時は、殻を取ったそばの実を一番粉から四番粉に分類します。そばの実の中心に行くほど白くなり、どの場所を使うかによって色や香りが変わってきますが、出雲そばは粉の選別をせず、玄そば(殻のついたそばの実)をそのまま製粉します。
そのため色は黒っぽいですが、香り高く、風味と独特の食感のあるそばが出来上がります。
出雲地方に数多くある出雲そばの店、それぞれに違いとこだわりがあります。郷土色豊かな出雲そばの食べ歩きや、店ごとのそばつゆの違いを比べるのも、出雲の旅の楽しみ方の一つです。
食べ方には大きく分けて、冷たい「割子そば」と温かい「釜揚げそば」があり、どちらも共通してそばつゆをかけていただきます。それぞれの特徴と食し方をご紹介します。
割子そば
出雲そばと聞いて、この丸く重なった器に入ったそばを想像する方も多いのではないでしょうか。
江戸時代、出雲地方の松江では野外でそばを食べるために、弁当のように重箱にそばを入れていました。この地方では当時重箱のことを割子と呼んでおり、形も四角いものが多かったといいます。しかし四角形だと隅が洗いにくく、衛生上良くないということから、今のような丸い形になったそうです。
そして食べる直前に器の中にそばつゆを直接かけて食していました。その当時の形式が、今に引き継がれているのです。
一般的な割子そばの食べ方
薬味は主にねぎ、のり、もみじおろし、かつおぶしなど。(お店によって多少違いがあります。)
そばにお好みで薬味をのせ、徳利に入った「そばつゆ」を上からさっと回しかけ、そばとなじませていただきます。(そばつゆの量はお好みで調節してください)
一段目を食べ終わったら、器に残ったそばつゆを二段目の器に移し、さらにそばつゆと薬味を足していただきます。その繰り返しで、最後までお楽しみください。
もちろんそば湯もお忘れなく。こちらもお好みでつゆを入れてお召し上がりください。(そば湯はお店で言うといただけます)
割子そばが松江の発祥であるのに対し、温かい釜揚げそばの発祥は出雲大社だと言われています。
全国から神様が一堂に会すると言われている10月、出雲大社では「神在祭」が執り行われますが、昔はこのお祭りの際に大社の周りに屋台が出て、温かい釜揚げで新蕎麦を振舞っていたといいます。
通常、そばは茹でた後に水洗いをしますが、屋台売りのため都度洗うわけにはいかず、鍋や釜から茹でたそばを器に盛り、とろみのあるそば湯を入れ、つゆや薬味をかけて食べていたようです。
そのスタイルが今に残り、割子そばと並んで出雲そばの代表的な食べ方になりました。
割子同様、自分でつゆを入れて味を調節できるのが特徴で、そばの栄養が溶け出したそば湯は栄養価が高く、健康食品としても注目されています。
出雲大社のお膝元で作られた食文化、とろっとしたそば湯に浸かった香り高い出雲そばを食べながら、神代の出雲に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
ハウル@矢野です。
9月に入り、秋雨前線が活発になり愚図つき気味のこちら松江市です。
全国各地に地元の戦国武将がいると思います。こちらでは、戦国時代には出雲の国の雄、尼子氏です。
安来市広瀬町月山富田城を中心に、最盛期には山陰山陽十一国を従えた戦国大名です。
地元の安来市では、お殿様よりも家臣の尼子再興のため尽力した悲運の武将
「山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)がヒーローです。全国的にはあまり知られていないかもしれませんね。「軍師官兵衛」でも秀吉の中国攻めで上月城の戦で登場しました。
ところが、戦前の教科書には教育の題材として登場していたんです。おそらく70歳以上の方はご存じではないかと思います。
「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話などから国民教育の題材として戦前の教科書に採用され、山陰の麒麟児の異名をとるのが山中鹿介幸盛その人です。
鹿介は天象4年(1545)生まれ。父を早くに失い、亀井家の養子となりますが、兄が病弱なため実家に帰り山中家を継ぎます。そして、三日月の前立(まえだち)に鹿の脇立(わきだち)のついた山中家の家宝の冑(かぶと)を譲り受け、名を鹿介と改めます。
永禄5年(1562)から始まる毛利元就との出雲征服戦により富田城は孤立。籠城戦となりますが、日増しに旗色は悪くなっています。それでも鹿介は、毛利勢の豪勇武士品川大膳と富田川中洲で一騎打ちを行い、見事大膳を仕留め士気を高めます。
しかし、長期にわたる籠城に武器食糧は欠乏し、戦意も喪失して遂に永禄9年(1566)11月21日、尼子義久は元就からの和睦の申し入れを受け降伏、富田城は落城。尼子氏は滅亡します。
苦境に立ってからが鹿介の本領発揮です。
鹿介は立原源太兵衛らと尼子氏再興を決意し、浪人となって京都に上り、新宮党滅亡の際、ただひとり落ち延びた尼子の遺児尼子孫四郎勝久を大将と仰ぎ尼子家再興の宿願を果たそうと図ります。
永禄12年(1569)月山富田城を除く、出雲地方をほぼ手中とするまで復興しますが、毛利との布部山の戦いに敗戦後急速に衰え、勝久と共に毛利氏の捕虜となります。その後逃亡し、織田信長の力を借り因幡国の諸城を攻略し再び一時的に尼子復興に成功しますが、毛利氏に敗れ再び落ち延びます。
天正5年(1577)羽柴秀吉中国遠征が始まると織田信長に従い、その先鋒隊となります。播磨の上月城で再度尼子氏復興を目指しましたが毛利に敗れ、天正6年(1578)勝久は自害してこの世を去り、鹿介もまた備中甲部川にて殺害されます。
こうして尼子家再興の道は絶たれ、尼子氏繁栄180年の幕を閉じました。
毛利氏に代わり堀尾氏が入場する事になり現在、国宝「松江城」を築城し松江の繁栄と繋がって行きます。堀尾吉晴のお墓は月山富田城近くのお寺にあるのを知っていましたか。また、吉晴の妻は、山中鹿介の忠義を称えて厚く供養したと伝えられています。
また、最近の話題では、NHK連続テレビ小説「マッサン」のモデルになったニッカウヰスキーのエンブレムに山中鹿介の兜がデザインされていたのはご存じでしたか?