ハウル@矢野です。8月もあと2日となり、少し筒ではありますが秋の気配がしてきた松江市です。
最近では小学校でも夏休みが8月31日まででなく一週間早く始まるようになりましたが、31日にある夏祭りの最後を締めくくる松江市八幡町にある竹内神社の大祭があり、明日からは2学期が始まると同時に秋に入ると感じたものです。
この神社は、松江では「武内さん」と呼ばれて新車の交通安全のお祓いを受けたりする親しみのある神社です。31日の夜遅くまで何百軒の屋台が所せましと立ち並び神社のお参りよりもりんご飴やおもちゃなどを楽しみに夏休み最後の一日を過ごしたものです。
○平濱八幡宮武内神社メモ
住所
島根県松江市八幡町303
■電話番号
0852-37-0435
■コメント
【出雲國神仏霊場第十三番】
平濱八幡宮と武内神社は同じ境内にある。平濱八幡宮は出雲国最古の八幡宮といわれ、主祭神は應神天皇。武内神社の主祭神は武内宿禰命で、長寿であったことから延命長寿、病気平癒、交通安全の守護神とされる。武内神社大祭(8月31日)は、有名で「たけおっつあんまつり」と呼び親しまれ、夜を徹して行われる祭は大勢の参拝客で賑わう。
■アクセス
・JR東松江駅より徒歩約20分
・JR松江駅よりバス 日の丸「米子行き」で「竹内神社前」下車から徒歩約3分
・JR松江駅より車で約10分
ハウル@矢野です。石見銀山は世界遺産登録から今年7月で10歳の誕生日を迎えました。地元の大森町では往事の佇まいを残す街並みを当時の大寒や豪商などになって大名行列ならむぬ当時の大森の銀山を支えた人々がゆったりと練り歩いたりと記念のイベントも盛りだくさんに考えられているそうです。
さて、鎌倉末期に開かれた石見銀山は、江戸時代に最盛期を迎え、人口も約20万人に達したといわれています。
そのため、銀や生活物資の輸送のための道路が四方に開かれていました。
その一つである銀山尾道街道があります。やなしおの道の歴史は古く、正平9年(1354年)の文書にもその記述が見られていますが、徳川氏が銀山を支配した慶長年間からは、この道は大森からの産銀輸送のため初代石見銀山奉行大久保長安の指揮の下に「官道」として整備が行われました。
かつてはこの地の庄屋でありまた、本陣として江戸から天領をを治めた大寒もこの本陣に宿泊した銀山街道 江川河畔の宿 「亀遊亭」は、石見銀山から銀を運んだ銀山街道が中国一の大河「江の川」と出会う地に幕末の本陣でもあった江戸時代の庄屋屋敷をそのままに今に残すたたずまいの宿です。
格調高い庭園とそれに続く江の川の絶景・・・四季折々の山の幸・川の幸伝承の味とともにくつろぎ出来る宿です。
客室は5室ですがご主人の計らいで2組の宿泊客しかとらないといいます。静けさを満喫出来なくなると言う気持ちからだそうです。また、近くには来年3月で廃線となる三江線の粕渕(かすぶち)駅もすぐそこにあり、時々は関東、関西からの観光客も宿泊するそうです。
旅館名「亀遊亭」
住所 〒699-4621
島根県邑智郡美郷町粕渕340
TEL 0855-75-1245
FAX 0855-75-1246
ハウル@矢野です。残暑厳しき折、なんと、童心に帰って、水鉄砲で水をかけあうという外目からは涼しいイベントがありました。
戦国時代、最盛期には中国地方にその名をはせた戦国大尿の尼子氏の居城であった、安来市広瀬町の月山富田城の近くで、27日、竹製の水鉄砲で戦う初めての大会が開かれました。
なぜだか、地元では、尼子のお殿さまより家臣の武将、山中鹿介(やまなか しかのすけ)の方が人気絶大です。その訳は、「我に七難八苦を与えたまえ」と尼子氏再興を願い三日月に祈り命を惜しまぬ活躍をしたからなんです。
それはそれとして、城跡を望む安来市広瀬町の公園で開かれた月山富田城跡竹水鉄砲合戦「GUN GUN SPLASH」には、山陰両県から会社員のグループやサバイバルゲーム愛好家など100人が参加しました。参加者はいい年の大人ばかりだというのですからビックリというか真剣勝負だったのでしょうね。
ルールは、相手の陣笠に付けられた金魚すくいの枠の紙を水鉄砲で射ち、より多く破った方が勝ちです。
あの「ポイ」ですよね。竹製の水鉄砲というんですから竹筒の太さや長さは規制対象外だったのでしょうかねえ。私だったら太くて長い大砲ッぽい方が遠くに飛ばせるので有利だと思うんですがねえ。それと機動力のある普通ッぽいのも必要だとは思うんですが。。。
実行委員会では、城跡の観光整備が完了する2019年までに町ならではの参加型イベントとして定着させ、大勢の観光客を迎え入れたいとしているそうです。私だったら材料の竹を用意して鉄砲の製造から参加者の工夫に任せるのも面白いと思うんですがねえ。。。
ハウル@矢野です。ここにきてやっと夜にエアコンをつけないで眠る事が出来るようになってきました。窓の外から快い虫の音が聞こえ小さい秋を感じる松江市です。
さて、今回は、「開館時間が日没の30分後まで」という美術館の紹介です。そんな美術館がTwitterで話題になっているそうですね。
そこは、松江市のシンボル宍道湖の東南のほとりにある、島根県立美術館です。
建物は、2階建てでカーブを描いた独特の屋根で遠くからでも目に付きますが、宍道湖の景観を邪魔しない美しい形状をしています。それもそのはず、穏やかな波状のカーブを描く高い天井を持つロビー空間に足を踏み入れると、目の前に美しい湖の景観が広がります。風景と一体化したような優美な建物の形態は、水面と大地をつなぐ「なぎさ」をイメージしたものだといいます。
島根県立美術館は1999年3月に開館した美術館で、湖に面した美術館らしく、所蔵作品は島根の美術とともに「水」を主題とする絵画を主要な柱としています。日本の近代絵画や19世紀フランス絵画、現代彫刻など、その数は約4700点。中でも浮世絵版画の質の高さと、写真作品のコレクションには定評があります。
私も何回か訪れた事がありますが、美人(?)の副館長が視覚障害のある私たちに触れるものは触らせてもらい、説明もわかりやすいように丁寧にしていただきました。
実は、2009年にはミシュランが発行した旅行ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で星1つを獲得した名所でもある島根県立美術館なのです。美術館から見る宍道湖の夕日は「日本の夕陽百選」にも選ばれていて、それをゆったりと楽しめるよう、3月から9月は日没後30分まで開館しているのです。また、2階のレストランも観光客から人気で、夕陽どきなどは予約しないといけないほどの盛況ぶりです。
湖岸に沿うように湾曲した美術館のロビー壁面はすべてガラス張りで、屋内でも季節によって表情を変える宍道湖の夕日はそれ自体がひとつの美術です。コレクション等の展示観覧は有料ですが、ロビーをはじめ建物への入場や湖岸の公園は無料で利用可能です。尚、障害者手帳をお持ちの方は展示観覧も無料です。
もう一つのおすすめは、美術館で出会えるうさぎたちです。
1Fロビーに設置された3種類のうさぎスタンプ。色は宍道湖の色であり当館イメージカラーであるブルーです。来館の記念に是非、押して下さい。。
あっ、そうそう、もう一つありました。幸運うさぎです。
手のひらにすっぽりとおさまるミニチュアのうさぎ。この可愛らしいうさぎは館内のミュージアムショップで販売しています。水晶とローズクォーツの2種類があります。お土産にぜひどうぞ。
○交通アクセスは
JR松江駅からは西へまっすぐ徒歩約15分です。また、松江市営バス「南循環線内回り」6分 → 県立美術館前バス停
○島根県立美術館へのお問い合わせは
〒690-0049 島根県松江市袖師町1-5
TEL:0852-55-4700 FAX:0852-55-4714
http://www.shimane-art-museum.jp
ハウル@矢野です。今回は、「たたら製鉄」がもたらした「源流仁多米こしひかり」との密接な関係について紹介します。
近年、開発によって地域の個性が失われていく中で、人々の生活や風土に深く結びついた地域特有の景観の重要性が見直されるとともに、その保護の必要性が認識されています。
この流れを受けて、奥出雲町の棚田風景が、平成26年3月18日に「奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観」として、『国重要文化的景観』に選定されました。奥出雲の「たたら製鉄」という産業が自然と融合し、そこに人々が共生することによって、土地を永続的に循環させるという知恵と工夫。 そうして自然ともたらされた景観こそが「奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観」なのです。
たたら製鉄は、鉄を生産したのみでなく、燃料木炭製造にかかる山林経営、鉄穴流しによる土地利用、その跡地を利用した棚田造成はもとより、輸送、農耕のための牛馬の改良や流通道路網の整備、さらには竹崎の十七夜や大呂愛宕祭りなどの伝統文化を生み出すなど、多面にわたり奥出雲の歴史文化に多大な影響を与えてきました。これらの歴史文化と、それによってもたらされた景観は、奥出雲にとってかけがえのない文化遺産となりました。
奥出雲地域は、たたら製鉄の原料となる良質な砂鉄が採掘され、燃料となる薪炭林が豊富であるという恵まれた自然環境のため、古来より「たたら製鉄」が盛んに行われてきました。最盛期の江戸時代の後期から明治初頭まで、我が国を代表する鉄の一大産地でした。
たたら製鉄の原料となる砂鉄は、「鉄穴流し(かんなながし)」という方法で採取していました。これは、岩石中にある砂鉄を水流の破砕力を利用して土砂と砂鉄を分離させ、比重差によって砂鉄のみを取り出す方法です。
この鉄穴流しによって山が切り崩され、奥出雲の大地は大規模な地形改変がなされました。今でいうところの自然破壊をして鉄の生産を永年の間してきました。
これがどうして現在、私たちを魅了する美しい棚田景観に変貌し、「仁多米」の産地となったのでしょうか。棚田の多くは、この鉄穴流し跡地に拓かれたものなのです。
砂鉄採取のため想像を絶する面積の山々を鉄穴流しで切り崩しましたが、驚くべきことに、切り崩し流された広大な跡地は、黄金に輝きを放つ稲田へと姿を変え、食通をうならせる「仁多米」の産地となったのです。
これは、採掘後に無残にも投棄されて荒廃の道をたどる世界の他の鉱山ではあり得ないことです。
ここに、現代社会が求めている環境リサイクル社会の原点を見ることができ、訪れる者に驚きと感動を与えています。
棚田へと変貌を遂げた理由として、次の事があげられます。
1.鉄穴流しに利用していた水路をそのまま水田用の水路にできたこと
2.鉄穴流し跡の棚田は南斜面が多く、日照時間が長く日当たりが良いこと
3.気温、日照、水温、降水、降雪などの環境条件が米づくりに最適であること
4.水と土壌に豊富なミネラルが含まれており、農作物の栽培に適していること
これらの好条件が重なり、奥出雲は「鉄の産地」から「お米の産地」へと変貌を遂げることができました。そして、この地で採れるお米は美味しいと高く評価され、「西の米どころ」として今もその名を馳せています。