ハウル@矢野です。
暦の上では、立冬も過ぎ、松江城のお堀を巡る遊覧船にも炬燵が登場しました。
松江城では、城攻めの模擬体験のイベントがあり大変に盛り上がっている松江市です。
なな何と4年連続で我が島根県の女性が美肌日本一になりました。
もはやまぐれでも、冗談でもなさそうですね♪
「都道府県別、ニッポン美肌ランキング2015!4年連続王者は神の国・島根県!」というニュースが飛び込みました。
その内容はというと、日本で一番美しい肌を持つ「美肌県」を決める、ニッポン美肌県グランプリが2015年11月12日に株式会社ポーラより発表され、見事1位に輝いたのは島根県に決定しました。島根県は4年連続1位に輝き、『美肌県』としての地位を不動のものとしました。
この美肌県グランプリは、POLAが全国47都道府県を対象に集めた女性の肌データを分析。県別に集計したもの。(データは2014年9月1日?2015年8月31日までの1年間)
データは以下の6部門をそれぞれ数値化し、合計値から偏差値を算出。総合順位を決めたとのこと。
肌が潤っている
ニキビができにくい
シミができにくい
くすみがない
毛穴が目立たない
キメが整っている
「なぜ島根の人がが美肌なのか?」の謎が明らかとなりました。
その理由は、特別なものではありません。温泉に毎日入っているとか、食べ物に特に気をつけているとか。確かに一部の女性はそんな人もいるかもしれません。
ざっくり言うと、壱年を通じて湿度が高く、日照時間が短い事だそうです。ランキングを見て見ると壱害にそうではなさそうですよ。これ以上のコメントは差し控えたいと思います。
以下に全国ランキングを掲載しますので、ご自分の県を探して見て下さい。
1位:島根県
2位:山形県
3位:愛媛県
4位:石川県
5位:富山県
6位:秋田県
7位:新潟県
8位:広島県
9位:三重県
10位:高知県
11位:東京都
12位:鳥取県
13位:岩手県
14位:京都府
15位:岡山県
16位:長野県
17位:兵庫県
18位:北海道
19位:大阪府
20位:宮崎県
21位:熊本県
22位:愛知県
23位:福井県
24位:鹿児島県
25位:福岡県
26位:山口県
27位:山梨県
28位:滋賀県
29位:岐阜県
30位:埼玉県
31位:香川県
32位:神奈川県
33位:徳島県
34位:宮城県
35位:長崎県
36位:奈良県
37位:和歌山県
38位:静岡県
39位:福島県
40位:佐賀県
41位:大分県
42位:青森県
43位:千葉県
44位:群馬県
45位:沖縄県
46位:栃木県
47位:茨城県
以上です。
ハウル@矢野です。
今回は、松江ゆかりの文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が松江滞在中、「目のお薬師さま」として知られる一畑薬師に参拝したエピソードにちなみ、門前町の商店でつくる一畑薬師観光協会が八雲の好物などを集めた特別メニューを考案したという話題です。
八雲の好物とは、何だったのでしょう。何でも卵と出雲そばは聞いた事がありますがその他には詳しく知りません。
没後111年を記念し「1」が並ぶ11月11日から、5日間限定で参道内の飲食店3店で提供する企画です。一般的に広く知られていなかった八雲と一畑薬師との関わりを掘り起こし、地域活性化につなげようとのことです。
八雲は、16歳のときに事故で左目を失明し、右目の視力も弱く、来日時は0・05以下だったとされています。
また、来松時に宿泊した大橋川沿いの富田旅館の女中さんが目が不自由だった事もあったようで余計に興味を持ったようです。
そもそも壱畑薬師は、海から薬師如来像を引き揚げたのが始まりとされています。
創開は平安時代、寛平6年(894)まで遡ります。
ひとりの漁師が海から薬師如来像を引き揚げて、お祀りしたのが始まりです。その後、盲目の母の目が開いたり、戦国の時代に幼い子どもたちの命が助かったりしたことから、目のお薬師様、子どもの無事成長の仏様として、広く信仰されています。 薬師本堂をはじめ、八万四千仏堂、観音堂、十六羅漢堂などが鎮座しています。
壱畑には、『お茶湯(ちゃとう)』と呼ばれる特別なお茶があります。境内の薬草畑『一の畑』で採れたお茶の葉を煎じ、一畑山に湧き出る清水で淹れ、薬師如来にお供えして、ご祈念したもの。創開当時から、万病に効くといわれ、ことに眼病を患っている人は、まぶたの上にお茶を塗り、両手を合わせてご真言を唱えていただくことで、目を守ってくださると伝えられています。
【アクセスについて】
●一畑電車北松江線伊野灘駅から車で約20分又は壱畑口駅よりイエローバスも運行しています。
施設住所は、島根県出雲市小境町
特に目を守っていただきたい方は、このお茶湯を目につけてご利益を受けられます。(まぶたにつけて下さい) 両手を合わせ、ご真言を唱えながらいただいてください。
幼少時の水木しげる少年も、のんのんばあに連れられてお参りしました。また、目玉おやじのブロンズ像が3体あるそうですので見つけて見て下さい。
目に自信のない方は一度ご参拝した方が良いかもしれマせんよ。
ハウル@矢野です。
秋の深まりは紅葉です。山の頂上付近から始まりやがて街路樹もはだかにしてしまいます。物悲しいのが秋の季節感でもあります。
そんな晩秋の山懐の集落をオレンジに染める秋の味覚といえば柿でしょうか。
松江市東出雲町に「じっくり熟すこと1ヶ月。その銘菓は日本一の甘さと評判」の銘菓?があります。
そこは、のどかな田園風景に包まれた東出雲町・上意東の畑地区です。
ココにこの小さな田舎町が全国に誇る“日本一”があります。
それが10月末から収穫、各農家の乾燥場に吊り下げられた後、師走の12月、地元の市場のほか、岡山、広島、大阪など県外にも出荷される「ほし柿」です。
この地区は、古く江戸時代中期からほし柿の里として知られており、乾燥場に吊るされた飴色の柿すだれは、この地区に晩秋の訪れそして冬支度の準備を知らせる風物詩となっています。
一口噛めば、口に広がる“どこか懐かしい味は、母の愛情たっぷりの証でしょうか。?
ところで、何が日本一でしょうか?
実は、ほし柿に隠された糖度、甘さが日本一だと言われているのです。
橙色の実に真っ白な果糖が浮かび出た西条柿の「ほし柿」は、舌がとろけそうな程の甘味で、その味は上品な甘さの和菓子のようです。色・大きさ・味の三拍子が揃い、県外からも注文が殺到するほどに高い評価を得ています。
晩秋から本格的な冬にさしかかる11月から師走の12月にかけ、各生産農家の柿小屋には収穫された柿がずらっと垂れ下がり、じっくりと天日に干され、その甘みを熟成、濃縮されるのです。建物全体がオレンジに染まるその光景は、まさに“飴色のすだれ”の表現がピッタリなのです。
この畑地区に描き出される景観美は、「第5回美しい日本のむら景観コンテスト」(平成9年3月)で優秀賞を受賞しているほどで、徐々に日が経つにつれ、その色が深まる様は、田舎町に起こる奇跡を見ているような美しさを誇ります。
畑地区の柿小屋は独特の構造で、木造3階建ての総ガラス張りです。
栽培されている柿には、樹齢400年を越す老木もあることから、ほし柿づくりは戦国時代にまで遡ると予想され、古くは尼子氏の城下にほし柿を行商に訪れたという記録が残るほか、江戸時代にはグルメなお殿様として知られる松平不昧公に茶菓子として、また近年では三笠宮家にも献上されるなど注目を集めています。
この味を支えているのが、地元農家の女性たちなのです。さすがは、女性の就業率NO1ですね。
柿小屋に吊されたほし柿たちは、その時期を今か今かと待ちわびているのです。
出荷は11月末頃から徐々にはじまり、12月に本格化します。
結構、「知る人ぞ知る」ってところなのかもしれませんが、松江に起こしの際には和菓子の仲間に入れて見て下さい。目からウロコになるかも知れませんよ。
数量が限定ですので、お早めに予約が必要なのかもね。
写真を3枚添付します。
1枚目は、ほし柿のすだれと柿のアップ
2枚目は、柿小屋
3枚目は、箱入りほし柿
詳しくは下記までお問い合わせ下さい。
(組合HP)http://www.hatahoshigaki.jp/index.html
(取扱い店)
くにびき農業協同組合 南営農経済センター東出雲出張所
〒699-0108島根県松江市東出雲町出雲郷413-1
TEL 0852-52-2512
FAX 0852-52-2514
写真をクリックすると別ウィンドウで拡大写真を表示します。
ハウル@矢野です。
街を歩いてもサザンカのいい香りで包まれている松江市です。
18日の日曜日には、松江祭鼕行列がありどうと呼ばれる大太鼓(約直径2m)の山車が20以上もねりあるきました。この祭りが終わると秋の深まりを感じだす松江市民です。
今日は、松江のシンボルの宍道湖に唯一浮かぶ嫁が島に盲導犬ハウルと渡船で上陸した話題です。
渡船の出発位置は県立美術館横の夕日スポットとの間に岸公園です。そこには、板張りの桟橋があり、船にお客さんが一杯になると出港するというシステムです。ちなみに船は28人乗りの屋根付きのボートです。料金は大人一人往復で1000円(障害者割引は500円)でした。
この日は低気圧の影響で天候は雨時々くもりでした。雨の闇まを待って運行するとの事です。受付のテントで約30分待ちました。やっと少し晴れ間が見えてきたので出港する事になりました。
湖面は風邪も強く水は茶色に濁っています。波も荒く木の葉のように船が揺れました。少し表現が過剰でした。でも船酔いしそうな勢いでしたよ。
出港地点からは約220mですので乗ったと思ったらあっというまに嫁が島に到着です。島は南北30m、東西110m、周囲240mあり、陸地からだともっと小さいと思っていましたが案外広いようです。船を降りると、島にはテントがあり、抹茶と和菓子の接待(300円)を受ける事が出来ました。
早速、ガイドさんが島の説明を始めます。
この島は、考古学的に言うと今から1200万年前、第三紀中新世の火山活動により噴出した玄武岩でできたと伝えられているそうです。島は今は、真ったいらになっていますが岩の部分を削って松江城の築城の時に石垣として使ったようです。
『出雲国風土記』意宇郡条においては「蚊島」と表記されています。当時は周囲が約110m と今の半分ほどの大きさで、島の中央には径7~8cm ばかりの木が一本生え、礒には貝や海草が見られたとあります。
この島には1つ悲しい伝説があります。
姑にいじめられた若嫁が寒さに凍った湖上を実家に帰る途中、氷が割れて水死し、それを哀れんだ湖の神様が一夜にして島を浮かび上がらせたとのストーリーが残されています。それ以来、嫁が島と呼ばれるようになりました。
伝説とはいえ、かなりの時代錯誤になりますよね。悲しい伝説の方が日本には多いようです。
島には弁財天を祀る竹生島神社の祠(1611年に堀尾忠晴が祭った)と鳥居(1907年に琵琶湖疏水設計者の田辺朔朗が寄進)があり、周囲には松が植わっています。1935年に松江出身の総理大臣の若槻礼次郎が数本の松しかなかった島に20本の松の苗を植樹したとの事です。消波ブロックとして、如泥石(松江藩の名工・小林如泥が考案したとされる円柱形の来待石)で島の周囲が固められています。
年に数回、湖岸から張られたロープを伝って島まで渡るイベント「嫁ヶ島に歩いて渡ろう」が開かれます。湖岸から島まで220m程度しか離れていないうえ水深も最大130-140cmと浅く、子供も多く参加します。島に続く東側の湖底には、周囲より少し高くなった水中参道がありますが、江戸時代初期までは対岸の袖師に連続した玄武岩の岬があり、松江城築造に伴う石材として掘削され岬がなくなったと伝えられていることから、玄武岩の掘削跡による浅瀬である可能性もあります。
松江城創建者の堀尾吉晴が天守閣からの眺めに感動して嫁ヶ島を「湖中の一勝地なり」と評しました。それ以来松江城天守閣からの眺望を阻害するような建物は建てる事が出来ないそうです。
水郷松江のシンボルとして、文豪・小泉八雲をはじめ多くの人々に愛されてきました。
丸谷才一は嫁ヶ島越しに見る宍道湖の落日美を「純粋に審美的な風景美」と評し、山崎正和は国内でも稀な「眺めるためにだけある島」であることを指摘し、吉田兼好の言葉を借りて「田舎の人はそばに行って手で触ったり足で踏んだりしないと納得しないが、その意味において都会的センスのある島」と述べ、両者ともに松江が洗練された趣味の町である証しとして、人があまり近づかなかった当時の嫁ヶ島の在り方を高く評価したそうです。
要するに一般人はこの神聖なる嫁が島にはあんまり上陸していないのです。有名人で最近島に渡ったのは、今年の8月にはロンブーのあつしさんが海水パンツで歩いて渡った時の放送が流れました。
帰りの船では波もおさまっていました。
受付テントの近くではかに汁、鳥の空揚げ、焼きそば、どんぶり物その他飲物の屋台が出ていました。ちなみにかに汁は1杯100円でしたのでおいしくいただきました。
このころからまた雨が降り出し、風邪が寒く体が冷えてきましたので、急いでバスに乗り込みランチの会場へと向かいました。
天候には恵まれませんでしたが記念に残る体験でした。
写真を3枚添付します。
1枚は松江城の天守閣から嫁が島を見た時の写真。
2枚目は約3mの石灯篭。
3枚目は漢詩の刻まれた石碑です。
写真をクリックすると別ウィンドウで拡大写真を表示します。
ハウル@矢野です。
ここのところお天気続きのこちら松江市です。暑くもなく寒くもなく食欲をそそる季節となりました。
水の都松江市では10月は特に舟遊び(?)が多いようです。
松江城お堀を巡る遊覧船を始めとして宍道湖と中海を繋ぐ大橋川に渡船や遊覧船が期間限定で走り回っています。
また、松江祭鼕行列は、10月の第3日曜日に、松江神社の例大祭に合わせ松江の開府を祝う祭として行われています。
毎晩のように「ドン ドン ドン」と各町内から大きな太鼓を打ち鳴らす音が聞こえています。子供から大人まで集まって練習をしているのです。松江市民はこの音で秋がだんだん深まるのを感じます。
運がいいと飛び入りで太鼓を打たせてもらえるかもしれませんよ。
さて、前置きが長くなりましたが、今回は出雲松江藩の松平出羽守はちょこちょこ落語に登場しています。という話題です。
しかも登場の時代を考えるとどうも松江藩7代藩主の春里(不舞公)のようです。財政難の藩を引き継ぎましたが家老2人に命じて10年で赤字の藩の財政を黒字に転じました。その上内部留保も相当残ったようです。藩が豊かになったというと幕府から新田開発やら治水事業などを命じてお金を使わせたようです。このお殿様は名君だったのかバカ殿さまだったのかよくわからないところがあります。一説によると財産を茶器や工芸品に変えたのだといいます。ここのあたりから落語に登場したのかもしれませんね。
例えば「猫餅」です。参勤交代の時に評判が聞き及びました。
近くに住む喜作という若い百姓が客を引くようにと、招き猫を彫ってくれたので、銭箱の上に載せておいたが、その猫は鼠に鼻を齧られてしまった」というのだ。
これを聞いた旅人はその猫を直して、〈いただき猫〉と名付けた。その猫の手のひらに餅代をのせると、ニャーと鳴いて手のひらを返して銭を箱の中に落すのだ。旅人は名も告げずに店を出て行った。
このいただき猫が評判となり、月之屋は繁盛し出した。参勤交代で道中をしている雲州松江の城主、松平出羽守の耳に入り、「余も猫餅を食したいのぅ。いただき猫に勘定を払いたいのぅ」とやってきた。猫餅を食し、いただき猫に勘定を払い、その鑿の跡を見て「この作者は飛騨高山の左甚五郎利勝に相違あるまい」と看破し、ばあさ
ん、喜作ともどもに褒美金をやった。
そんなことから、店はまた評判を呼んだ。
他にも飛騨高山の左甚五郎利勝にマツワル話がいくつかあります。300~500両を支払ったと言われています。
また、「火炎太鼓」です。これも参勤交代でたまたま通りがかった時の事です。
あらすじは確かこのようだったと思います。
この日、甚兵衛が仕入れてきたのは、古く汚い太鼓であった。あまりにも汚いので、丁稚の定吉に店先でハタキをかけさせていると、定吉が手を滑らせて音を鳴らしてしまう。
たちまち、一人の侍が店に飛び込んで来た。大名が駕籠で近くを通っていたようで、太鼓の音が大名の癪に障ったのかと、甚兵衛たちは戦々恐々である。
ところが、侍の話では「通りかかった主君の赤井御門守様(雲州松平家)が、太鼓の音をえらく気に入り、ぜひ実物を見てみたいから屋敷まで太鼓を持って来て欲しい」という。
甚兵衛は喜ぶが、妻は「こんな汚い太鼓が売れるのか」と不審を抱く。「どうせそんな太鼓はほかに売れっこないんだから、元値の一分で売り払ってしまえ」とまで言い放つ。
甚兵衛が屋敷に太鼓を持参し、殿様に見せると、たちまち売約が成立する。殿様によれば、自分は目利きであり、この太鼓は国宝級の価値ある名品「火焔太鼓」だという。なんと三百両で買うという。甚兵衛は、腰を抜かし、出された金を百五十両まで数えたところで泣きだす始末。
話が長くなりましたのでまたの機会に続きます。