ハダル@矢野です。今年は、松平半7代藩主没後200年という事で松江市では色々なイベントがあります。中でも茶道の不昧流にちなんだ事柄が多く催されています。
私自信も他の茶道とどこが違うのかさっぱりわかりませんので少しだけ調べてみました。
「あれ?茶道ってただお茶を点ててお茶碗を何回か回して飲めばいいんじゃないの?」と思っている方も多いのではないかと思います。
しかし、茶道の歴史は鎌倉時代から始まっているのです。そのため、長い歴史の流れともに、「茶道」、「茶の湯」という言葉を軸にさまざまな形がうまれていきました。500以上の流儀があるようです。
さまざまな流派を知ることも茶道の楽しみですね!
その多くの流儀の中で三、千家(さんせんけ)ッてなぜよく見聞きするのでしょうか?
それは、歴史に関係があります。まず、三千家というのは「表千家」(おもてせんけ)、「裏千家」(うらせんけ)、「武者小路千家」(むしゃのこうじせんけ)と呼ばれます。この三千家は千利休の孫である千宗旦(せんのそうたん)の子どもたちが作ったものなのです。
現在の茶道の生みの親である「千利休」が絡んでいる事などはご存じの通りです。
千宗旦には4人の息子がいましたが、長男は勘当され、次男が一翁宗守(いちおうそうしゅ)といって「武者小路千家」(むしゃのこうじせんけ)を、三男が江岑宗左(こうしんそうさ)といって「表千家」(おもてせんけ)を、四男が仙叟宗室(せんそうそうしつ)といって「裏千家」(うらせんけ)を作ったのです。そこからそれぞれ、家元制度になっていって組織として大きくなっていったのです。
では、種類が違うこの三千家にはどのような違いがあるのでしょうか?
それは扱う茶道具や作法です。例えば、お客様におもてなしをする亭主(ていしゅ)や半東(はんとう)が腰に身につける帛紗(ふくさ)の色や柄も違います。裏千家で使う帛紗(ふくさ)の色は、男性は紫色で女性は赤色です。表千家と武者小路千家で使う帛紗(ふくさ)の色は、男性は紫色で女性は朱色です。難しくなってきましたが、これを知っているのかどうかでお茶席に招待されても慌てる事もなく平然としておられます。
さらに、お抹茶は薄茶の場合、よく泡立っているお抹茶が裏千家、あまり泡を点てないお抹茶が表千家と武者小路千家となります。泡をたくさんたてることでまろやかな味わいになります。
そして、正座の仕方にも男女で違いがあります。裏千家では、男性はこぶし2つ分両膝をあけ、女性はこぶし1つ分あけて座ります。表千家は、男性は安定する広さに両膝をあけ、女性はこぶし1つ入るくらいに膝を明けて座ります。武者小路千家では、男性はこぶし1つ分、女性は膝を開かずに正座します。
流派によって作法などの動きや道具の違いもあります
また、お辞儀の仕方では、裏千家ではおなかが膝につくほどの丁寧なお辞儀をする真(しん)、前に身体をかがめるほどのお辞儀をする行(ぎょう)、軽くお辞儀をする草(そう)と呼ばれる3種類のお辞儀の仕方があってそれぞれ使い分けます。
表千家は、八の字に両手をついて横からみて30度くらいの角度までお辞儀をします。男性は両手を20cm位、女性の場合は両手を7~8cm位をあけます。武者小路千家では、男女とも左手が前になるように両手を膝の前で軽く合わせてから、軽く指先を畳につけて背筋を伸ばしてお辞儀をします。
皆さまは座敷ではどのタイプでしょうか?
前置きが長くなりましたが、これからが本題です。
不昧流は松江藩松平第7代藩主松平治郷(不昧)(以下不昧公と称す)によって創設されたものです。
不昧流の特色の一つは不昧公が正式にお茶を習い始められたとほぼ同時期に麻布天真寺の大巓(だいてん)和尚のもとに参禅され、禅の道を究めて行かれたため、茶道と禅は同じ道を志しているという茶禅一味の境地に到達されたため精神性が強いという点があります。
公自身が色々な流派を学び、また家来にも他流派を学ばせその中に残っている利休流の良いところを取り入れて(諸流皆我が流にて『茶礎』)いかれました。
そのため、清潔を旨とし(挨拶の時にも畳に平手を付けないで軽く拳を握って挨拶)、蒔絵の棚、蒔絵の炉縁などあまり華美と思える道具は避けて、茶箱、棚などは白木を使う。衣服も質素に無地を使う場合が多い。見せ場のあるような点前は好まず、無駄と思える所作は省いた簡素なお点前で、日常的に食事の時に飯を食べ汁を吸う(茶の湯心得)というように無造作で淡々として潔く目立たない点前を良いとしました。
石州流に本を置きながら利休道歌の実現、草庵の侘び茶こそ理想とする武家流と町人流の茶の総合が不昧公のお茶の本質で、当時江戸では不昧公のお茶は今までとは違うと人気が出て、雲州流とか不昧流といわれるようになり大名、町人、医者、道具商など門弟が増えていきました。
どおりで、お茶席でも「好きなようにお召し上がりなさい。」と言われる訳です。
少しは参考になりましたでしょうか?!
ハダル@矢野です。空梅雨なのか雨がほとんど降らない松江市です。今朝に発災いした大阪北部の地震で災害にあわれた方々にお悔やみとお見舞いを申し上げます。最近の日本列島各地での地震の多さにこの地域は安全という事はないと改めて感じるこの頃です。
さて、今回は、名所「神秘のパワースポットの那賣佐神社と岩坪」の紹介です。
まずは、西出雲から多岐へ抜ける農道沿い、高倉山に鎮座する出雲市の那賣佐(なめさ)神社の紹介です。この広域農道は、今の時期、新緑で山々が彩られ、通っていて気持ちのよい道路の一つです。
入り口の鳥居から本殿まで230段(!)の階段があり、登っていく内にだんだんと神秘的な雰囲気につつまれます。風邪にそよいで、竹林から葉のこすれる音がしてさらに神秘度が増しているようです。境内には名木と案内がある木が3本あり歴史の古さを感じさせます。
試練の多かった夫を支える良き妻、スセリビメノミコトが祀られる神社です。
以下は入り口の案内板より抜粋した御由緒です。
那賣佐神社
[御祭神]
葦原醜男命
須勢理姫命
大国主命の又の名を葦原醜男命(あしはらしこお)と申し上げ其の后神は須佐之男命の御子でこの里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫命(すせりひめ)であります。
天平五年(西暦七三三年)に編纂された出雲国風土記によれば御祭神御夫婦が仲睦まじく岩坪の宮殿でお暮らしになっていた或る日、社前の渓流が岩苔の上をなめらかに流れているのをご覧になって「滑し盤石(なめしいわ)なるかも」と仰せられた「なめしいわ」を約って「なめさ」となり、この地方を滑狭郷(なめさのさと)と称するようになった記録があります。
又これより約二百年後の、延喜式神名帳に当社は神祇官に登録してある神門郡二十七座の内にあり、これを式内社といいます。
享保年間の雲陽誌には高倉明神とあり高倉山に鎮座せられているところから通称「高倉さん」とも称し、明治五年には社格郷社に列せられるなど洵に由緒深い神社であります。
すぐそばにある岩坪の案内です。須勢理姫命生誕の地とされている岩坪です。
案内板によると江戸時代には5つあったらしいです。たまった砂を掘り出して雨乞いに使用したともあります。
岩坪は水流の浸食に伴いできた丸い穴で、最小が直径50センチ、深さ20センチ、最大は直径2.5メートル、深さ1.4メートルにも及びます。
オオクニヌシノミコトの妻・スセリヒメの生誕の地との伝承があり、パワースポットとして訪れる人が増えています。
御祭神御夫婦が仲睦しく岩坪の宮殿でお暮しになっていたとき、ある日社前の渓流が岩苔の上をなめらかに流れているのを見て「滑し磐石なるかも」と言ったのが「なめしいわ」「なめさ」となり、この地方の名の由来となったといわれています。
の地方を(神西・江南)を滑狭郷(なめさのさと)と言うようになりました。
すなわち、郷名の発祥地は、ここの岩坪の地です。
更に「出雲国式社考」には、この岩坪は、ふだんは砂を満たしているが、旱魃の祭、これを掘り出し雨乞いすれば忽ち雨が降るという伝説があることも記述されています。
一般に甌穴とは、急流の川床の岩面にできる鍋状の穴をいいます。円い礫が穴の中に入って流水によりこれが回転し、永い間に岩面に大きなくぼみをつくったと考えられます。
この岩坪は、古い文献にもみられる貴重な天然記念物であり史跡です。
このスポットのご利益 縁結び、子授、夫婦和合、五穀豊穣、養蚕守護、医薬、病気平癒、産業開発、交通・航海守護、商売繁盛、厄除け・厄払い
スセリヒメも見たであろうヒメボタルやゲンジボタルをたくさん見ることができます。多くの人に来てほしいと思います。
「那賣佐神社」
島根県出雲市東神西町720
「岩坪」
島根県出雲市東神西町(番地不明)
ハダル@矢野です。この間は、山陰の一品のひとつである「板わかめ」(めのは)を紹介しましたが、今回は、島根県の県魚でもある「飛び魚」を使った「あご野焼き」の紹介です。
「あごのやき」は産卵の為に日本海を北上する「あご(飛魚)」をすり身にして酒やみりんなどで味付けして棒に錬り付けて焼く料理です。島根県や鳥取県の山陰地方では日本海沿岸地域で飛魚が多く水揚げされ、様々な地元の料理に利用されてきました。「あご(飛魚)」はクセがなくて淡白な味ですが出汁がでるので、味噌汁、煮物などに広く使われ、新鮮な身は刺身としてまた練り物として利用されてきました。あっさりとした淡白な味はフライや塩焼きに向きますが、特にかまぼこやちくわの様に練り物にして焼いた「あご野焼き(あごのやき)」は山陰地方の特産品となっています。「あごのやき」は形はちくわに似ていますが、大きさが全く違います。製造業者によってもちろん大きさは異なりますが、大きいものでは1本が直径7~8cm、長さ70cm、重さ1.5kgにもなります。食べる時は1cmほどの輪切りにするのが普通ですが、手で千切ったりそのままかじって食べるのもオススメです。
○「あごのやき」の由来
「あごのやき」がなぜ「野焼き」と呼ばれるのかはそのサイズに関係しています。「あご野焼き」は昔は全て炭火で焼いていたのですが、そのあまりの大きさから焼くまで大量の煙が出るのでとても屋内で焼くには無理がありました。必然的に軒先や戸外で焼くようになり、「あご」を「野焼き」する事から「あご野焼き」と呼ばれる様になったといわれています。また、飛魚(とびうお)がなぜ「あご」と呼ばれるのかははっきりとはわかりませんが、一説によれば「あごが落ちるほど美味しいから」ともいわれています。
○「あごのやき」の作り方
「あごのやき」は「あご」のすり身を長い棒に錬り付けて回しながら焼いていきます。今ではすり身を作るには機械を使用する事がほとんどですが、肝心の作業となる「焼き」は熟練の職人が1本1本火加減を見ながらじっくり焼いている場合が多いです。数十センチにもなる大きな「あごのやき」を機械で一律に焼くのは難しく、今でも職人の腕が試される重要な作業です。焼いている最中に欠かせない作業が「火ぶくれたたき棒」と呼ばれる剣山の様な道具で「あごのやき」の表面を刺す事です。表面を刺して無数の穴を開ける事で「あごのやき」が膨れて皮がはがれてしまう事を防ぎ、火の通りも良くなります。「あごのやき」には酒やみりんなどの調味料が含まれていますが、穴を開ける事でそれらの調味料が表面に出てきて茶色くなるというわけです。ちなみに調味料が入っていなければ白色のままの「あごのやき」になります。
○「あごのやき」の食べ方
「あごのやき」はちくわや蒲鉾の様に既に加熱調理済みなのでそのまま食べる事ができます。丸ごと1本で販売されているので輪切りにしてそのまま食べるのも良いですが、豪快にそのままかじって食べるのもありです。酒の肴としてわさび醤油をつけて食べるのも美味しいです。また、フライパンで少し焦げ目をつけて焼くと香ばしさが出て美味しさが一層引き立ちますし、簡単にレンジで温めても旨味が出てきます。他には天ぷらにして塩を振って食べるとまた違った味が楽しめます。
「めのは」も「あごのやき」もお酒のおつまみには持って来いの一品ですよ!!
ハダル@矢野です。今週は雨が多く肌寒い一週間になりそうな松江市です。
鉄と命のつながりを見ると面白いです。勿論、地球の中心部も、鉄でできています。そして、鉄は人類と多くの生き物を守っています。
人類の文明の発展に貢献してきた鉄づくりで、島根県奥出雲町では今も炎の文化が息づいています。砂鉄と木炭を燃やし鋼を造る日本古来のたたら製鉄。町は独自の地域資源の価値を高めるため、日本農業遺産と世界農業遺産の認定を目指しています。
先人たちが創意工夫して、鉄とともに上質な農産品を育んできました。仁多米は、丘を削り砂鉄を得た鉄穴(かんな)流しの跡地に造った棚田で栽培しています。仁多の和牛は江戸時代、松江藩の鉄師が丈夫な体格に品種改良し、木炭を焼くために森林を伐採した跡でソバを育てました。こうした広がりは世界で類いまれな事です。
国内外を通じ、鉱毒事件や土壌汚染など本来、鉱山開発と農業は相いれないものなのです。しかし、有害な重金属を含まない砂鉄ならではの「共存」です。また、森林の伐採地を30年間隔で一巡させ鉄づくりと森の再生を両立させた手法も特筆されます。たたらと農林畜産業が結び付いた資源循環型農業と位置付けられます。
棚田にはオキナグサやタガメやドジョウなど豊かな生き物がすみ、森のミツバチがソバの受粉を助けます。
国内はもとより世界の舞台では、どう評価されるか感心を持って見守りたいところです。
非常に楽しみです!
ハダル@矢野です。皆さんは、梅雨と入梅ッて同じだと思っていますか?
そもそも梅雨(つゆ)とは、春から夏の間に、梅雨前線(ばいうぜんせん)の影響で雨が続く期間のことです。そして、この期間が始まることを「梅雨入り」、終わることを「梅雨明け」と呼びますね。
この「梅雨入り」を漢語で表現したものが『入梅』です。ですから、梅雨入り = 入梅ということになります。
ところで、「夏の七草」をご存じでしょうか?
結論から言うとアカザ、イノコヅチ、ヒユ、スベリヒユ、シロツメグサ、ヒメジョオン、ツユクサの7種です。
セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの春の七草や、ハギ、オバナ、クズ、ナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、キキョウの秋の七草にくらべ、夏の七草はまったく知名度がありませんね。
それもそのはず、夏の七草は、太平洋戦争末期の1945年6月、日本政府の広報誌『週報』において発表されたものだったからだそうです。つまり夏の七草とは、本土決戦のための食糧だったのであり、それゆえ敗戦とともに忘れ去られてしまったのです。
しかし、当時の本当に身につまされる「決戦生活」は、初夏のこの時期にこそあったそうです。
「決戦のために雑草を食え!」
1945年2月14日付の432・433合併号の特集はその名も「食糧決戦」。「野草も決戦食糧に」として、「野生の雑草類」の活用が訴えられていたそうです。
タンポポ、タビラコ、アザミ、ノゲシ、ヨメナ、ナズナ、ハコベ、ギシギシ、カンゾウ、ノビル――などなど。
ご丁寧なことに、漬物、和え物、味噌汁、酢味噌、煮物、きんぴら、油炒め、サラダなど、具体的な活用方法もひとつずつ詳しく記されていたとの事です。
たとえば、タンポポについてはつぎのとおりです。
「葉をよく洗つて、切れ口から出る白い汁を取り去り、茹でて浸し物、味噌和、味味噌、澄し汁等に用ひますと結構です。また生のまゝサラダにしても漬物にしてもよいのです。根も茹でたり煮たりして食べられます」
これをみると、意外に悪くはないと思いませんか?タンポポやヨメナなどは昔から食べられてきたし、ナズナやハコベは春の七草です。
また、別の特集は「勝ち抜く食糧」。冒頭で紹介した「夏の七草」とともに、「山草も決戦食の仲間入り」としてつぎの山菜が取り上げられています。
ヤマブキ、ツワブキ、ワラビ、ゼンマイ、ヨモギ、イタドリ――などです。
現在でもよく食べられるものですね。
現代社会では、食糧は過分にある日本ですが、かつては、このような悲惨な時代があった事を日本人は忘れてはならないと思います。でも、何だか健康になりそうな気がしませんか?ひとつでも普段食していない雑草を上手に料理すれば良いのかもしれません。試してみてはいかがでしょうか。