ハウル@矢野です。
ここのところ夏を思わせるような気温の高い日が続いている松江市です。
さて、皆様のお住まいの神社にもお供えしてはいけない物があったりしませんか?
松江市の美保神社の神様えびす様は、鶏の卵、メンドリも嫌いで、オンドリが特に嫌いなのだそうです。これには、それだけの理由があります。神様も人の子?なのでしょうか。少しユニークなエピソードが隠されていました。
ここからは、引用です。
えびす様事代主神は、中海を渡り美保の対岸にある東出雲町揖屋(いや)の三嶋溝杭姫命(みしまみぞくいひめのみこと)のもとに夜な夜な通われ、明け方になると美保の社にお帰りになっていました。ところがある夜、一番鶏が時刻を間違えて、まだ夜も明けないうちに刻(とき)の声をあげてしまいました。急いで帰路についたところ、あわてられたせいか途中で船を漕ぐための櫂(かい)を海中に落とされ、仕方なく足で掻いている時に、その足をワニ(サメ)に噛まれ不具になられました。やっとの思いで美保に帰り着いたえびす様の耳に、今度は正確な刻の声が聞こえました。怒ったえびす様はそれ以来ニワトリを忌むべきものとされたと伝わっています。
以後、里(美保・揖屋)の人は鶏肉、鶏卵を食べず、鶏を飼うこともご法度としました。
えびす様は、右手に釣りざおを持ち、左手に鯛を持ち片足を曲げておられるのはこの時の傷だからだそうです。
ですので、鶏の卵、メンドリも嫌いで、オンドリが特に嫌いという訳なのです。
ちなみに、この時期、オンドリがコケコッコーと鳴くのは何時ころか、アナタはご存じでしょうか。五月のいま、午前4時、もしくはそれより15分早い時刻です。
手こぎの船では1時間以上は余裕でかかると思いますが、そこは神様ななのでしょう。
それはともかくとして、美保神社の神事には国譲り神話にまつわる青柴垣神事があります。この神事を取り仕切るのは氏子なのです。くじ引きで当家に当た美保神社の氏子は交代で1年間ないし4年間、さまざまな厳しい修行をするそうです。その間、鶏肉も鶏卵も食べられないのだといいます。
毎朝、海に入って身を清めて、一年間続ける事など真冬にも行うのです。
地元の一般市民によって千何百年ものあいだ受け継がれて神事を行うのも神様の偉大な力と伝統を絶やさないという心意気には、頭の下がる思いがします。
ハウル@矢野です。
今回は、出雲市斐川町にある仏経山登山の話題です。
この山は、出雲風土記に記されていた神名火山(かんなびさん)と呼ばれていましたが、今は仏経山(ぶっきょうざん)と呼んでいます。神の山から仏の山に呼び方が変わった全国的にも珍しい山です。標高は366mです。高さ的にはそんなでもありませんので、楽に登頂出来るのではないかと挑戦してみました。
仏経山登山者用駐車場に車を止めて、いざ出発です。山陰道がすぐ近くにあって、走行する車のエンジン音が絶え間なく聞こえます。仏経山トンネルもすぐそこにありました。
最後の民家までは約100mまで、アスファルト舗装の道路があって、その先は行き止まりになっています。そこのすぐ手前に登山入口の看板がありました。
リードをつけた犬と放し飼いの犬2匹が私たちを出迎えてくれました。
登山道に足を踏み入れるとそこは、路幅が50cmもないくらいで、竹の葉や木の葉が足元には沢山積もっています。それに昨日の暴風で竹が倒れて路を塞いでいました。竹林浴ゾーンを過ぎると路には、ますます石ころや木の根っこがあったり勾配は急だったりして簡単には登れません。思ったより辛い登山になりそうです。
耳をすましてみるとちょろちょろと水が流れる音がしています。山水(やまみず)なのか池でもあるのかは竹や樹木で判別出来ませんでした。あとで、調べてみると美しい池があったようです。
三方を樹木に囲まれた森林トンネルをひたすら進みます。上を見上げると木の葉の間から少し木漏れ日がしています。足元の悪さに10分も歩くとすでに汗が滲んできてハーハーともうきつくなってきました。時々ある20~40cmの芽っ子の段差が余計に路を険しくしています。険しい路ですが、時折、広い路幅と平らなところがありました。5分くらいずつ休憩をしながら登ります。山腹には、展望出来るような開けたところまで登ってきました。斐川平野が一望出来ます。出雲空港はもう少し東の方向なのか視界には入りません。
今回はちゃんとトレッキング シューズを履いてきましたのでまだ、ましですが、とてもスニーカーでは無理そうです。
登山路入口からすでに40分近く時間は過ぎています。ここで、パーカーは脱ぎ捨ててリュックに押し込みました。お茶を飲んで出発です。
よく踏まれた登山道をしばらく進むと、巡視路は直進方向に続いていますが、登山道は右へ分岐します。分岐点には指導標が立っていますので迷う事はありません。山腹につけられた道が続きますが、このあたりからは、より一層急に滑りやすくなりますので、一歩一歩ずつゆっくりと登って行きます。
見晴らしはないものの、明るい木漏れ日の射す登山道を快適にしばらく進むと、坂の傾斜がきつくなり、ロープの渡された坂道を登ります。このロープは約10mくらいありますが、下半分は直径3cmくらいですが上半分は工事現場のトラロープみたいでか弱いものでした。一層きつくなった路を登ると空が開けて頂上広場に到着しました。
登って来た路を下山するのかと思うと気が滅入りそうです。
やっと到着です所要時間は約1時間30分もかかりました。。
まず目につくのは、広く平坦な展望広場の中央には南無妙法蓮華経と彫られた石塔が立っています。北の展望を眺めると斐川平野が広がっています。
きょうは、霞み気味の展望ですが、眼下に広がる景色は美しいですが、頂上周辺に立木があり視界が不十分な感じです。展望広場入口には、案内看板があり、仏経山のいわれが説明してあります。
案内にはこう書かれています。
出雲平野から南を見ると、ひときわ高くそびえ立つ山を古くから神名火山といっていました。出雲風土記(733年)に「神名火山という」とあります。神名火の名火は、かくれこもるという意味がありますので、キサヒの神がおしずまりになっている山といわれています。これを今は、仏経山と読んでいます。
戦国時代中国地方に勢力をもっていた武将尼子経久は、この山に十二の寺を建て、薬師十二体を安置し、山の名も仏経山と改めて、尼子家の安泰を祈ったといわれます。神の山が仏の山に変わるという全国的に珍しい山です。
また東の峰には、天保年間に建てられたと言われる石塔があり、新川を開通した時、無縁仏の霊を祀ったものと言われています。
「斐川町史より」
頂上広場を左の方向に100m進むとNTTの中継アンテナがありました。本当の頂上はこの辺りかもしれません。昔も今も一望にみわたして斐川平野を見守っている神様の山なのでしょう。
1時間程昼食をとって下山しました。帰りの時間は約1時間かかりました。
登山道入り口から3時間40分の行程でした。GW中でしたが登山道ですれ違ったのは家族連れ人組だけでした。山では、すれ違うと必ず「こんにちは。」と挨拶をします。なのに下界ではあんまりご近所さん以外はしません。いつもながら不思議な思いで仏経山駐車場を後にしました。
今日は、とても気持ちの良い汗をかきました。
ハウル@矢野です。
小泉八雲の桜にかかわる怪談の二つ目は、『十六桜』です。地元では「十六日桜」と呼ばれているそうです。
どうゆう訳なのか二つとも松山市に現在でも現存している桜の樹です。
前回の『乳母桜』より数段ぞっとしますよ。
今日はたまたま、16日ですのでこのお話の武士の月命日となりますね。
昔から先人たちは、自分の命を捧げて身替わりとなるとか橋やお城の建設の人柱になるとか神様に願掛けをしてきました。
今でも好物を絶って願い事をするという話も時々耳にしますね。
ここから引用です。
伊予の国和気郡(わけごおり)に、「十六桜」と呼ばれる桜がある。毎年1月16日(陰暦)当日にだけ咲く。十六桜春を待たずに、大寒の頃に咲くのは、ある人間の魂が宿っているからである。 この桜の木、伊予のある侍の屋敷の庭で育っていたもの。開花も3月末から4月にかけての当たり前の時期であった。
その侍、幼少の頃は桜の木の下で遊び、桜を褒めたたえる和歌を書いた短冊を、枝にぶら下げる行事も、先祖から100年以上に渡って続いていた。
侍は歳をとり、子供達には先立たれ、その桜のみが彼の愛情の対象となってしまった。
ところがある夏の日、その桜が枯れ死んでしまう。
隣人は彼の心の慰めとなればと、美しい桜の若木を彼の庭に植えてくれた。 全身全霊で老木を愛でてきた侍には、それを失った代わりに、心の支えになるものは、何一つなかった。
老侍はその桜木を甦えさせる方法を思いつく。「身代わり」になるというのだ。
桜の枯木の下で、白い布を広げ、更に敷物を敷き、その場所で武士の作法にしたがって、「腹切り」をする。
彼の魂は、木の中へ入り、同時刻、花を開花させたのでございます。
そして毎年、その桜の木は、一月十六日、白い雪の季節に今もなお開花するのでございます。
(湯浅卓・訳)
おしまいです。
ハウル@矢野です。
桜の季節も終わり葉桜となりましたが、小泉八雲の桜にまつわる怪談を紹介します。
小泉八雲の桜にまつわる話は二つあります。 『乳母桜』、『十六桜』櫻のものがたりです。
まずは、乳母桜』からです。
姥桜とは、ヒガンザクラやウバヒガンなど、葉が出るよりも先に花が咲く桜の俗称です。娘盛りが過ぎても、なお美しさや色気が残っている女性の事を表しています。
もともとの意味は、姥桜は、花の盛りに葉がない桜を、歯のない姥にかけたもので、かなりの年増でありながら艶かしい女性もいうようになったものです。現代では、美しさを表す「桜」よりも、老いを表す「姥」に重点が移り、年甲斐もなく若作りをしている女性を指すようになりました。
かの小泉八雲はどういうふうに理解していたのかは不明ですがおそらくは奥さんのセツさんの考えがかなり影響したものではないでしょうか。どうも語源に近い意味に捉えているようです。
今回は、松江に関係はしないのですが紹介します。
ところは、愛媛県松山市の話です。松山城の西にある小高い山は、西山と呼ばれています。西山の麓に国宝建造物のある大宝寺があります。
ここから本題です。引用文になります。
昔々、角木長者といわれる長者がいた。長者は子供に恵まれず、大宝寺のお薬師様に「子供が授かりますように」と願かけをした。この願いが叶い女の子が生まれ、名を「るり」と名付け乳母が大事に育てていた。ある日、乳母の乳が出なくなり子育てに難渋していた。子供を授かったお薬師様に願ったところ、やがて乳母の乳も元通りになり、お礼に本堂を建立したという。
娘は成長し15歳を迎えた頃、重い病になり、乳母は「我が命に代えてでも、るり様をお助け下さい。」と大宝寺のお薬師様にお祈りをした。その甲斐あって、るり姫は平癒し元気を取り戻したが、乳母の身体は衰弱し、お薬師様との約束事だと言って薬も口にせず「お薬師様のお礼に、桜の木を植えて下さい。」と言って死んでしまった。長者は乳母の真心を思い、桜の木を本堂の前に植栽した。
桜は成長し花の咲く時期になると、母乳のような色の見事な花を咲かせているという。
それで、この桜は【姥桜】【乳母桜」と呼ばれています。
おしまいです。
ハウル@矢野です。
鯉のぼりと言えば、魚の鯉ですが、鮫やイルカまたオオサンショウウオのぼりが泳いでいる島根です。暦の上では立夏を過ぎて春と夏が混在していますので、着衣には困ったものです。
豊かな自然に囲まれた出雲地方には、じつに様々な歴史や特有の神話が残されています。
今回は、奥出雲から安来市まではたたら街道で大昔より栄えました。そのたたらの神様の総本宮が安来市の山中地域に鎮座していますという話題です。
たたらの発達した地域には、金屋子というあまり聞いたことのない名前の神様が祀られています。
出雲にある金屋子神社は、全国1200社を数える金屋子神社の総本山です。春秋の大祭には、たたらの職人をはじめ、製鉄に関わる様々な人たちが数多く参拝しています。
総ケヤキ造りの本殿と拝殿、そして石造りでは日本一といわれる高さ9mの鳥居を持つ金屋子神社は、その存在感は荘厳ながら、どこか他の神社にはない異質な感じを持っています。
閑散な自然に囲まれているからでしょうか。六感に、ひんやりとしたものを感じます。まるで玉鋼を精錬し、磨き上げて作られる刃物を連想してしまいます。背筋に鋭い刃を感じます。
この神社は製鉄関係者しかしらないマイナーな存在だからでしょうか。そこに伝わる神話も、かなり奥が深いものがあります。
こういう神話がありますので一部引用します。
大昔のある年の夏のことです。日照りで困っていた播磨(はりま)の国に、恵みの雨を降らした神様がいらっしゃいました。この神が「わたしは金山彦天目一個神という金屋子の神です。これから遠く西の方へ行き、そこで鉄を吹き、道具を作ることを多くの人に教えなければなりません」と語り、白鷺に乗り天高く飛び立っていかれました。たどりついたのは出雲の国、西比田黒田の森の「桂の木」。どうりで、金屋子神社の周辺には立派な桂の古木が多いはずです。
たたらの高殿の建設を指揮したのは、なんと75人の子どもの神々だったそうです。75種類の道具を作り、土地を整備したり、杉の木を伐って「ふいご」を作ったりしたといいます。高殿とは、「華麗なる・・」で言えば高炉のことです。この高殿には6本の大きな柱が建てられ、金屋子神、木の神、日の神、月の神が東西南北の方向を守護した。
ある年の冬の事です。「村下(むらげ)」と呼ばれる技術長が麻に足をとられ、転んで死んでしまいました。金屋子神は「村下の死骸を高殿の柱にくくりつけて鉄を吹くのです」と教えたそうです。神の言われるままにすると、これまでにない良い鉄を作ることができたと伝わッています。
金屋子神は秘伝の製鉄技術を教え、繁栄をもたらしたという事です。その反面、「死のけがれ」を好む神様でもあるのです。あのひんやりとした感覚、あれはもしかして火柱となった村下たちの霊魂・・・・なのかもしれません。あまり気持ちのいい話ではありませんがそれだけ鉄の精錬技術は神がかった神聖なものだったに違いありません。
金屋子神に関連していろいろの珍しいタブーがありますので紹介します。
金屋子さんは犬と蔦、麻が嫌い、藤は好き
鳥取県日野郡では金屋子さんが天降りされた時、犬に吠えられ蔦を伝って逃げられたが蔦が切れたので犬に噛まれて亡くなった。島根県飯石郡では蔦の代わりに麻苧(あさお)に絡まって亡くなった。仁多郡では蔦が切れたが、藤に掴まって助かった、などの伝説があります。神とは言いながら何とも人間臭いユーモラスな話です。そのような訳でたたらの中には犬を入れない、たたらの道具に麻苧を用いないと言います。また、桂の木は神木なのでたたらで燃やさないとされています。
金屋子さんは女嫌い
金屋子神は女神なので女嫌い、妻が月経の時は夫の村下はたたらへは入らず、産褥の時はたたらを休み、もし仕事の手が離せないなら家へ帰らず生まれた子供の顔も見なかったそうです。村下は特に厳しく、風呂は女の入った後は絶対に入らなかったといいます。
金屋子さんは屍体が好き
金屋子さんが突然亡くなられた時、門弟共は、たたらをどうすれば良いか分からず、金屋子神に救いを求めて祈ったところ、鉄がどうしても涌かないときは四柱に死体を立て掛けよ(仁多郡)、村下の骨を四柱に括り付けよ(吉田村)と神託があったと言います。
金屋子神社のお祭りは毎年春は三月の中子の日、秋は十月の初子の日に催されます。昔は比田の金屋子祭りと言えば出雲、伯耆はもちろん、遠い他国からもたたら師や鍛冶屋が参りに来たそうです。
詳しいお問い合わせ先は、 0854-34-0700(金屋子神話民俗館)まで。
アクセス JR荒島駅からイエローバス(観光ループ内周り)25分、広瀬バスターミナル下車乗換え・西比田車庫前下車徒歩30分