ハウル@矢野です。
今日は、6月10日の「時の記念日」について考えてみたいと思います。
私たち現代人は時間に追われる人もいれば一日が長く感じられる人それぞれいらっしゃると思います。電車の時間などは数分遅れれば「どうなっているんだろう。」と文句を言う人も多い世の中です。また、日本ほど交通機関が時刻表通りに運行されている国はありませんね。
それだけ時間は誰にでも平等に与えられたものだからなのでしょうか。地方都市の松江市に住んでいると都会に比べて時間の流れがおちらと(ゆっくり)である気がします。それだから人は、ゆったりとした時間を求めて旅に出るのでしょうね。
さて、この記念日が制定されたのは、1920年(大正9年)の事です。思ったより古くに制定されています。約100年前になります。
目的は、「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」というものです。
この記念日の由来はご存知の方が多いと思いますが今一度復習しておきます。
天智天皇10年の4月25日に漏刻(水時計)が設置され、宮中に時がつげられるようになったのを記念するものです。この天智天皇10年4月25日を太陽暦に直すと671年の6月10日になるため、この日が時の記念日に制定されました。
ところで、大名時計とも呼ばれる「和時計」は、日本生まれの世界的発明品だった事をご存じですか?その頃の時間は明け6つ~暮れ6つを12等分にして時刻を告げるものでした。夏冬で変化する昼夜の長さを6等分する不定時法をもとに作られており、同じ昼の一時(いっとき)(2時間前後)も、夏の方が長い▼夏は早朝から夕方まで働くことが善であり、お天道様が見えている間は休むことはばかられる、と考えた農耕民族の発想ではなかったのでしょうか。
しかも、太陽が昇30分前から太陽が沈んだ30分後までというものでした。
当然ながら日本全国で同じ時刻を共有してはいなかったのです。当時は数時間のずれなどさほど問題にはならなかったのでしょう。
この和時計(わどけい)も江戸時代から明治初期にかけて制作・使用された不定時法を用いるための機構を持つ世界でも珍しい時計でした。あの時代劇で大名や豪商屋敷の床の間にある時計です。
しかしながら、明治6年(1873年)を以って日本は定時法へ移行したことにより、その実用的使命を終えました。
現代においては、電波時計などというものが存在し、100年経過しても数秒狂うかどうかなるものが登場し、世界中で時刻を共有する時代となりました。この記念日を迎えて少し時間の大切さを考えてみてはどうでしょうか。
ハウル@矢野です。
6月に入り夏本番に向けて季節も移り変わろうとしています。
毎年この時期からゲリラ豪雨などの災害が増えてきます。
6月1日は「気象記念日」です。ご存じでしたでしょうか?
由来は、1875年(明治8年)6月1日に明治政府の手により東京気象台として東京で1日3回の気象と地震の観測が開始されたことから、1942年(昭和17年)に制定されました。場所は内務省地理寮構内、現在の東京都港区虎ノ門にあるホテルオークラのあたりです。
ところで、日本で最初の天気予報は、E.クニッピング(現在のドイツの気象学者)により1884年(明治17年)6月1日に毎日3回全国の天気予報が発表されています。その天気予報(日本で初めての天気予報)は次のようなものです。
●午前6時
全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ
●午後2時
変リ易キ天気ニシテ風位定ラス 且雨降ル地方モアルベシ
●午後9時
中部及ビ西部ハ晴或ハ好天気ナルベシ 北部ノ一部ハ天気定ラス 一部ハ曇天又ハ烟霧ナルベシ
今でいうところの概要を言葉少なく発表していたようです。少しは天気の三光になったかもしれませんがおそらく一般の国民には、理解不可能だった事でしょう。
現在は、気象衛星を使ってピンポイントの気象の変化をコンピューターにかけて予報しますので、当時の地上からの観測とは段違いに正確さに欠ける事は言うまでもありません。しかし、当時は気象観測といっても、地上観測だけですからデータ量や気象に対する知識や予報技術に格段の差があることは確かです。明治の人の勇気と災害を防ぎたいという熱意には頭が下がります。
ハウル@矢野です。
明日からは6月に入り梅雨も間近かとなり、しとしとと雨の季節もまた、風情のある松江の街の散策はいかがでしょうか?
今回は、松江藩(松平家)9代藩主の霊廟があります月照寺(げっしょうじ)の紹介です。この時期には、約30000本のあじさいが出迎えてくれる松江のあじさい寺ともいいます。
この寺の境内は、約1万㎡の広さを持ち、本堂や宝物殿に続き、初代から第9代藩主までの廟所が厳かに並んでいます。
特に目立つのは、不昧公の廟所と左手には初代・直政公の廟所があります。こちらの二つの廟門は、も桃山文化の作風が巧みに取り入れられた傑作で、共に島根県の有形文化財に指定されているます。
それと、ここからが今回の本番です。第6代藩主・宗衍(むねのぶ)公の廟所へ赴くと、大亀の石像に出会います。大人の背丈ほどもある迫力の大亀は、その背中に高さ約3mの「寿蔵碑」を載せています。宗衍公が50歳になった折、息子である不昧公が父の長寿を願って建立したものですが、実はこの大亀にはウソとも誠ともとれる奇妙な伝説が残っているのです。諸説あるのですが、その中の一つが、松江をこよなく愛した明治の文豪・小泉八雲の随筆『知られざる日本の面影』に登場します。
小泉八雲(松江ではヘルンさんと呼ばれています)の怪談「多亀伝説」があります。
【月照寺の大亀伝説】を引用します。有名な話ですので、ご存じかもしれません。
松平家の藩主が亡くなられた後、亀を愛でていた藩主を偲んで大亀の石像を造りました。ところが、その大亀は夜になると動きだし、蓮池の水を飲んだり、城下の町で暴れ人を食らうようになったのです。
困り果てた寺の住職は、深夜、大亀に説法を施しました。すると大亀は、「私にもこの奇行を止めることはできません。あなたにお任せいたします」と、大粒の涙をポロリポロリと流しながら頼んだといいます。そこで、亡くなった藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀の背中に背負わせて、この地にしっかりと封じ込めたのでした。
引用はここまでです。
6代藩主が、親孝行を願って建立した大亀がなぜ、暴れだしたのかは筆者には不明ですが、きっと世の中に親不孝者が増えたから自分でもコントロール出来なくなるほどの不思議なパワーが乗り移ったのかもしれませんね。
必死に首を持ち上げる大亀の表情を見ていると、このような伝説も本当に思えてくるようです。
このお話のほか、暴れる大亀の首を侍が刀で切り落としたという伝説もあるようですよ。その話を裏付けるかのように大亀の首には痛々しい傷跡が残っており、なんだか妙な気にさせられます。しかも、大亀像が鎮座しているのは大杉に囲まれ昼も薄暗い墓所なので、何が起こってもおかしくないような雰囲気なのです。もしかしたら伝説のように大亀が動きだすのではと、ちょっぴり冷や汗が出てきます。しかし、息子が父の長寿を願って建立したという親孝行なエピソードもあり、大亀の頭をなでると長生きできるといわれています。背の高い亀の頭をなでるのは至難の業ですが、頑張って腕をあげて触れてみてください。
この大亀伝説に加え、人魂の目撃談などもあり、ミステリアスなスポットとして知られる月照寺ですが、約3万本のアジサイが咲き誇るお花見スポットという顔も持っています。「山陰のアジサイ寺」として有名で、6月中旬から7月上旬にかけて参道や廟門、苔むした石灯籠を青や紫の花が彩ります。周囲の燃えるような緑も手伝って、境内全体が梅雨のみずみずしい美しさに包まれるので、訪れるにはオススメのシーズンです。
これからの季節、少し涼しく(?)なるかもしれませんよ♪
お問い合わせ先は、以下です。
電話番号 0852-21-6056
所在地 島根県松江市外中原町179
拝観時間 8時30分~17時30分(4~10月)、8時30分~17時(11~3月)
アクセスは、 JR松江駅より松江レイクラインバスで月照寺前バス停すぐです。
尚、あじさいの見ごろは6月中旬から7月中旬です。
ハウル@矢野です。
プロジェクトゆうあいの玄関に新居を構えたツバメさんの子どもたち3がピーチクパーチクとお腹を空かせていて、親ツバメは忙しそうに餌を運んでいます。
さて、島根県出身の大相撲力士は現在、現役なのは隠岐の海が、80何年ぶりに三役になりましたが、江戸時代には雲州松江藩の力士が番付表の上位を独占していました。
そもそも神様の国出雲は相撲の原点となった神様がおられました。
起源は古く、古事記の国譲り神話に、出雲大社近くの稲佐浜で力比べをした建御名方神(たけみなかたのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)が登場しています。日本書紀には、出雲国の野見宿祢(のみのすくね)が、日本一と力自慢をする大和国の當麻蹴速(たいまのけはや)を打ち負かした逸話があり、二つの神話・伝承が相撲の起源とされています。
さらに、江戸時代になると「雲州力士なくして江戸相撲は成り立たなかった」と言われたほど、松江藩の力士たちは大きな存在感を示していました。各藩所属の力士はお抱え力士と呼ばれ、藩主から庶民まで相撲に熱狂しました。
何故、松江藩の力士は強かったのでしょうか?
松江に入府した松平家初代藩主・直政(徳川家康の孫で真田幸村より軍扇をもらった武将)も大の相撲好きだったらしいのです。相撲取りを藩船に乗る水夫の水主(かこ)として召し抱えました。他藩にはない制度でした。要するに、力士を終身雇用の公務員として採用し、水主は現役退役後は後進の指導や新人の発掘も行ったという訳なのです。
当然に当時は力士長屋もあり雷電為右衛門(らいでん ためえもん)が住んでいた場所も当時の住宅地図に載っています。土俵も明記されていました。
7代藩主・治郷(不昧)の時代になると相撲の盛り上がりは最高潮に達しました。享和元(1801)年3月の番付表では大関・雷電為右衛門(らいでんためえもん)をはじめ、雲州力士が西方の上位をすべて占めました。相撲しか娯楽がなかった時代、強い力士は庶民の英雄となり、勝率9割6分、大相撲史上最強の力士といわれました。
今では考えられないようなウソのようなホントの話です。この資料はちゃんと大相撲博物館に残っています。
力士は藩の力を誇示する役目を背負い、広告塔の役割も担っていました。力士はどの藩に属しているのか、一目で分かる図柄を施した化粧まわしをしめました。
その頃の松江藩のは武士、町民を問わず花高々だったことでしょうね。
日本人力士が早く横綱になる日もそう遠くないでしょう!
ハウル@矢野です。
今回は、大田市仁摩町の仁摩サンドミュージアムと鳴り砂の琴ヶ浜のレポートです。
島根ハーネスの会(盲導犬ユーザーとサポーターの会)の総会&交流会が大田市のあすてらすで開催されました。総勢25名、盲導犬10頭です。5月14日には総会・懇親会があり、翌日は、仁摩サンドミュージアムと鳴り砂の琴ヶ浜に観光へと向かいました。
私たち一行は、宿泊施設のあすてらすを福祉バスと乗用車に分乗して国道9号線を西に向かいます。約20分で、目的地の仁摩サンドミュージアムに到着しました。
この砂博物館は、建物はガラス張りの6つのピラミッド群からなっており、仁摩町出身者の建築家、高松伸の設計で、近くにはない特徴ある建物ですのですぐにわかります。
駐車場はバス1台と障害者用駐車場が2大ありました。一般用駐車場は国道9号線を渡った向かい側にありました。
バスを下車するといきなり、24段+23段の階段が迎えてくれました。
まず、施設の概要を説明しておきます。タイムホール(一年計砂時計「砂暦」の展示のほか砂のオブジェの展示があり、「鳴り砂」についての詳細な解説がなされています。)また、AVホール・アートギャラリー・ふれあい交流館・ガラス工房・展示コーナーなどがあります。
また、コップに砂を吹き付けて、オリジナルの絵柄を彫刻する「サンドブラスティング」体験や、バーナーを使ってガラスを溶かして、ネックレスなどのアクセサリーを作る「バーナーワーク」も実施しているそうです。
本館の正面入り口で入館手続きをしてメインのホールに向かいます。ホールにはまず高さ5,2m最大直径1mのガラス製のひょうたんのくびれをもう2つ3つおおくしたような砂の入った容器が目に飛び込んできます。
この砂博物館には、世界一大きな一年計の砂時計があります。1年間で、1噸の砂時計です。
ガイドの方の説明によると、そもそも何故、仁摩町に砂時計を作ったのか?という話から始まりました。
仁摩サンドミュージアムの原点になったのは、鳴り砂の美しい浜である琴ヶ浜があるからです。琴ヶ浜は、仁摩町の海岸に約1.6kmに渡って続く砂浜です。その砂浜は歩くと「キュッキュッ」と美しい音を奏でます。
その音の美しさが琴を奏でているかのように聞こえるから琴ヶ浜なのです。
また、鳴り砂とは、丸みを帯びた石英が多く含まれた砂のことをいいます。鳴り砂海岸は日本中に数ヶ所あるといわれていますが、浜が汚れていない事や砂粒が小さく揃っている事など稀な条件の下、浜の全域にわたってよく鳴る砂浜は、今では数えるほどになってきています。
一日の砂の落下速度の調整は、容器の上部を温めたり、下部を温めたりして砂の通過量をコンピューター管理をしているとの事です。
容器の中の砂は、0,1ミリメートルで粒が揃っている事が必要だそうです。残念ながら琴ヶ浜の砂は0,27mmでガラス容器が物理的に製造出来なったので、仙台市産だそうです。
また、砂容器のレプリカがあり、容器のガラスの厚みや大人2人がかりで最大直径をやっとで届くくらい大きい事などを実際に触れて感じる事が出来ました。お茶碗に鳴き砂が入れてありそれをすりこぎで突くときゅッきゅッと鳴りました。
次回は、工芸コーナーでふき砂やガラスのアクセサリーにも挑戦してみようかと思います。
詳しくは、下記に連絡先を記載しますので、お問い合わせ下さい。
お問合わせ 仁摩サンドミュージアム
住所 : 〒699-2305
島根県大田市仁摩町天河内975
TEL : 0854-88-3776
FAX : 0854-88-3785
URL : http://www.sandmuseum.jp/
最後に琴姫伝説を引用しておきます。
長門壇ノ浦の源平合戦で平家が敗れ去った寿永4年(1185年)春のこと、激浪に洗われて痛々しい姿になった1艘の小舟が馬路の浦へ漂着しました。その中には、みめうるわしい姫が、気を失って倒れていました。その優しい腕には、しっかりと琴が抱かれていました。
姫は村人達の手厚い介護により、ようやく元気になり、若き命は助かりました。姫は平家の一門でありました。哀れな平家の最期に寄るところ無き身を、情け厚いこの馬路に留めることにした。それから、せめて村人たちへのお礼にと、日毎夜毎、姫が奏でる琴の音が、浜一帯にやさしく、時には悲しく、白浜に響き渡りました。奏でる琴の音色は村人たちをはげまし、なぐさめたといいます。村人たちは姫を心から慕いうやまうようになりました。
しかし姫は、恐ろしかった戦いを思い、また都の生活をしのび、いまの運命のはかなさを嘆かずにはいられませんでした。そうして1年、春がめぐってきたある日のこと。漁から帰った漁師たちは、いつも響く琴の音が聞こえないことに気付きました。これをおかしく思い姫の住家を訪ねてみると、美しい姫は舟の中で琴を抱いて倒れていました。ちょうど、この浜に流れ着いたときと同じ姿で、すでに息絶えていたのです。
村人たちは、姿美しく心優しかった姫の死をいたみ悲しみ、浜一帯が見下ろされる丘に、琴と一緒に葬りました。翌朝、漁に出ようとした漁師たちが浜を歩くと、琴を奏でるような美しい音が鳴りました。村人たちは、きっと姫がこの浜に心を残していったに違いないと言い合い、この浜を琴ヶ浜と呼ぶようになりました。