松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

あじさいと大亀伝説の月照寺(げっしょうじ)の散策はいかがですか?!

2016年05月31日 15:15   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
明日からは6月に入り梅雨も間近かとなり、しとしとと雨の季節もまた、風情のある松江の街の散策はいかがでしょうか?
今回は、松江藩(松平家)9代藩主の霊廟があります月照寺(げっしょうじ)の紹介です。この時期には、約30000本のあじさいが出迎えてくれる松江のあじさい寺ともいいます。
この寺の境内は、約1万㎡の広さを持ち、本堂や宝物殿に続き、初代から第9代藩主までの廟所が厳かに並んでいます。
特に目立つのは、不昧公の廟所と左手には初代・直政公の廟所があります。こちらの二つの廟門は、も桃山文化の作風が巧みに取り入れられた傑作で、共に島根県の有形文化財に指定されているます。
それと、ここからが今回の本番です。第6代藩主・宗衍(むねのぶ)公の廟所へ赴くと、大亀の石像に出会います。大人の背丈ほどもある迫力の大亀は、その背中に高さ約3mの「寿蔵碑」を載せています。宗衍公が50歳になった折、息子である不昧公が父の長寿を願って建立したものですが、実はこの大亀にはウソとも誠ともとれる奇妙な伝説が残っているのです。諸説あるのですが、その中の一つが、松江をこよなく愛した明治の文豪・小泉八雲の随筆『知られざる日本の面影』に登場します。
小泉八雲(松江ではヘルンさんと呼ばれています)の怪談「多亀伝説」があります。
【月照寺の大亀伝説】を引用します。有名な話ですので、ご存じかもしれません。
松平家の藩主が亡くなられた後、亀を愛でていた藩主を偲んで大亀の石像を造りました。ところが、その大亀は夜になると動きだし、蓮池の水を飲んだり、城下の町で暴れ人を食らうようになったのです。
困り果てた寺の住職は、深夜、大亀に説法を施しました。すると大亀は、「私にもこの奇行を止めることはできません。あなたにお任せいたします」と、大粒の涙をポロリポロリと流しながら頼んだといいます。そこで、亡くなった藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀の背中に背負わせて、この地にしっかりと封じ込めたのでした。
引用はここまでです。
6代藩主が、親孝行を願って建立した大亀がなぜ、暴れだしたのかは筆者には不明ですが、きっと世の中に親不孝者が増えたから自分でもコントロール出来なくなるほどの不思議なパワーが乗り移ったのかもしれませんね。
必死に首を持ち上げる大亀の表情を見ていると、このような伝説も本当に思えてくるようです。
このお話のほか、暴れる大亀の首を侍が刀で切り落としたという伝説もあるようですよ。その話を裏付けるかのように大亀の首には痛々しい傷跡が残っており、なんだか妙な気にさせられます。しかも、大亀像が鎮座しているのは大杉に囲まれ昼も薄暗い墓所なので、何が起こってもおかしくないような雰囲気なのです。もしかしたら伝説のように大亀が動きだすのではと、ちょっぴり冷や汗が出てきます。しかし、息子が父の長寿を願って建立したという親孝行なエピソードもあり、大亀の頭をなでると長生きできるといわれています。背の高い亀の頭をなでるのは至難の業ですが、頑張って腕をあげて触れてみてください。
この大亀伝説に加え、人魂の目撃談などもあり、ミステリアスなスポットとして知られる月照寺ですが、約3万本のアジサイが咲き誇るお花見スポットという顔も持っています。「山陰のアジサイ寺」として有名で、6月中旬から7月上旬にかけて参道や廟門、苔むした石灯籠を青や紫の花が彩ります。周囲の燃えるような緑も手伝って、境内全体が梅雨のみずみずしい美しさに包まれるので、訪れるにはオススメのシーズンです。
これからの季節、少し涼しく(?)なるかもしれませんよ♪
お問い合わせ先は、以下です。
電話番号 0852-21-6056
所在地 島根県松江市外中原町179
拝観時間 8時30分~17時30分(4~10月)、8時30分~17時(11~3月)
アクセスは、 JR松江駅より松江レイクラインバスで月照寺前バス停すぐです。
尚、あじさいの見ごろは6月中旬から7月中旬です。



どうして雲州力士は江戸時代には強かったの?!

2016年05月31日 11:12   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
プロジェクトゆうあいの玄関に新居を構えたツバメさんの子どもたち3がピーチクパーチクとお腹を空かせていて、親ツバメは忙しそうに餌を運んでいます。
さて、島根県出身の大相撲力士は現在、現役なのは隠岐の海が、80何年ぶりに三役になりましたが、江戸時代には雲州松江藩の力士が番付表の上位を独占していました。
そもそも神様の国出雲は相撲の原点となった神様がおられました。
起源は古く、古事記の国譲り神話に、出雲大社近くの稲佐浜で力比べをした建御名方神(たけみなかたのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)が登場しています。日本書紀には、出雲国の野見宿祢(のみのすくね)が、日本一と力自慢をする大和国の當麻蹴速(たいまのけはや)を打ち負かした逸話があり、二つの神話・伝承が相撲の起源とされています。
さらに、江戸時代になると「雲州力士なくして江戸相撲は成り立たなかった」と言われたほど、松江藩の力士たちは大きな存在感を示していました。各藩所属の力士はお抱え力士と呼ばれ、藩主から庶民まで相撲に熱狂しました。
何故、松江藩の力士は強かったのでしょうか?
松江に入府した松平家初代藩主・直政(徳川家康の孫で真田幸村より軍扇をもらった武将)も大の相撲好きだったらしいのです。相撲取りを藩船に乗る水夫の水主(かこ)として召し抱えました。他藩にはない制度でした。要するに、力士を終身雇用の公務員として採用し、水主は現役退役後は後進の指導や新人の発掘も行ったという訳なのです。
当然に当時は力士長屋もあり雷電為右衛門(らいでん ためえもん)が住んでいた場所も当時の住宅地図に載っています。土俵も明記されていました。
7代藩主・治郷(不昧)の時代になると相撲の盛り上がりは最高潮に達しました。享和元(1801)年3月の番付表では大関・雷電為右衛門(らいでんためえもん)をはじめ、雲州力士が西方の上位をすべて占めました。相撲しか娯楽がなかった時代、強い力士は庶民の英雄となり、勝率9割6分、大相撲史上最強の力士といわれました。
今では考えられないようなウソのようなホントの話です。この資料はちゃんと大相撲博物館に残っています。
力士は藩の力を誇示する役目を背負い、広告塔の役割も担っていました。力士はどの藩に属しているのか、一目で分かる図柄を施した化粧まわしをしめました。
その頃の松江藩のは武士、町民を問わず花高々だったことでしょうね。
日本人力士が早く横綱になる日もそう遠くないでしょう!




「仁摩サンドミュージアムと鳴り砂の琴ヶ浜」のレポートです

2016年05月24日 14:41   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
今回は、大田市仁摩町の仁摩サンドミュージアムと鳴り砂の琴ヶ浜のレポートです。
島根ハーネスの会(盲導犬ユーザーとサポーターの会)の総会&交流会が大田市のあすてらすで開催されました。総勢25名、盲導犬10頭です。5月14日には総会・懇親会があり、翌日は、仁摩サンドミュージアムと鳴り砂の琴ヶ浜に観光へと向かいました。
私たち一行は、宿泊施設のあすてらすを福祉バスと乗用車に分乗して国道9号線を西に向かいます。約20分で、目的地の仁摩サンドミュージアムに到着しました。
この砂博物館は、建物はガラス張りの6つのピラミッド群からなっており、仁摩町出身者の建築家、高松伸の設計で、近くにはない特徴ある建物ですのですぐにわかります。
駐車場はバス1台と障害者用駐車場が2大ありました。一般用駐車場は国道9号線を渡った向かい側にありました。
バスを下車するといきなり、24段+23段の階段が迎えてくれました。
まず、施設の概要を説明しておきます。タイムホール(一年計砂時計「砂暦」の展示のほか砂のオブジェの展示があり、「鳴り砂」についての詳細な解説がなされています。)また、AVホール・アートギャラリー・ふれあい交流館・ガラス工房・展示コーナーなどがあります。
また、コップに砂を吹き付けて、オリジナルの絵柄を彫刻する「サンドブラスティング」体験や、バーナーを使ってガラスを溶かして、ネックレスなどのアクセサリーを作る「バーナーワーク」も実施しているそうです。
本館の正面入り口で入館手続きをしてメインのホールに向かいます。ホールにはまず高さ5,2m最大直径1mのガラス製のひょうたんのくびれをもう2つ3つおおくしたような砂の入った容器が目に飛び込んできます。
この砂博物館には、世界一大きな一年計の砂時計があります。1年間で、1噸の砂時計です。
ガイドの方の説明によると、そもそも何故、仁摩町に砂時計を作ったのか?という話から始まりました。
仁摩サンドミュージアムの原点になったのは、鳴り砂の美しい浜である琴ヶ浜があるからです。琴ヶ浜は、仁摩町の海岸に約1.6kmに渡って続く砂浜です。その砂浜は歩くと「キュッキュッ」と美しい音を奏でます。
その音の美しさが琴を奏でているかのように聞こえるから琴ヶ浜なのです。
また、鳴り砂とは、丸みを帯びた石英が多く含まれた砂のことをいいます。鳴り砂海岸は日本中に数ヶ所あるといわれていますが、浜が汚れていない事や砂粒が小さく揃っている事など稀な条件の下、浜の全域にわたってよく鳴る砂浜は、今では数えるほどになってきています。
一日の砂の落下速度の調整は、容器の上部を温めたり、下部を温めたりして砂の通過量をコンピューター管理をしているとの事です。
容器の中の砂は、0,1ミリメートルで粒が揃っている事が必要だそうです。残念ながら琴ヶ浜の砂は0,27mmでガラス容器が物理的に製造出来なったので、仙台市産だそうです。
また、砂容器のレプリカがあり、容器のガラスの厚みや大人2人がかりで最大直径をやっとで届くくらい大きい事などを実際に触れて感じる事が出来ました。お茶碗に鳴き砂が入れてありそれをすりこぎで突くときゅッきゅッと鳴りました。
次回は、工芸コーナーでふき砂やガラスのアクセサリーにも挑戦してみようかと思います。
詳しくは、下記に連絡先を記載しますので、お問い合わせ下さい。
お問合わせ  仁摩サンドミュージアム
住所 : 〒699-2305 
島根県大田市仁摩町天河内975
TEL : 0854-88-3776   
FAX : 0854-88-3785
URL : http://www.sandmuseum.jp/

最後に琴姫伝説を引用しておきます。
長門壇ノ浦の源平合戦で平家が敗れ去った寿永4年(1185年)春のこと、激浪に洗われて痛々しい姿になった1艘の小舟が馬路の浦へ漂着しました。その中には、みめうるわしい姫が、気を失って倒れていました。その優しい腕には、しっかりと琴が抱かれていました。
姫は村人達の手厚い介護により、ようやく元気になり、若き命は助かりました。姫は平家の一門でありました。哀れな平家の最期に寄るところ無き身を、情け厚いこの馬路に留めることにした。それから、せめて村人たちへのお礼にと、日毎夜毎、姫が奏でる琴の音が、浜一帯にやさしく、時には悲しく、白浜に響き渡りました。奏でる琴の音色は村人たちをはげまし、なぐさめたといいます。村人たちは姫を心から慕いうやまうようになりました。
しかし姫は、恐ろしかった戦いを思い、また都の生活をしのび、いまの運命のはかなさを嘆かずにはいられませんでした。そうして1年、春がめぐってきたある日のこと。漁から帰った漁師たちは、いつも響く琴の音が聞こえないことに気付きました。これをおかしく思い姫の住家を訪ねてみると、美しい姫は舟の中で琴を抱いて倒れていました。ちょうど、この浜に流れ着いたときと同じ姿で、すでに息絶えていたのです。
村人たちは、姿美しく心優しかった姫の死をいたみ悲しみ、浜一帯が見下ろされる丘に、琴と一緒に葬りました。翌朝、漁に出ようとした漁師たちが浜を歩くと、琴を奏でるような美しい音が鳴りました。村人たちは、きっと姫がこの浜に心を残していったに違いないと言い合い、この浜を琴ヶ浜と呼ぶようになりました。



美保神社に祭られているえびす様の鶏嫌いはどうして?!

2016年05月23日 14:39   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
ここのところ夏を思わせるような気温の高い日が続いている松江市です。
さて、皆様のお住まいの神社にもお供えしてはいけない物があったりしませんか?
松江市の美保神社の神様えびす様は、鶏の卵、メンドリも嫌いで、オンドリが特に嫌いなのだそうです。これには、それだけの理由があります。神様も人の子?なのでしょうか。少しユニークなエピソードが隠されていました。
ここからは、引用です。
えびす様事代主神は、中海を渡り美保の対岸にある東出雲町揖屋(いや)の三嶋溝杭姫命(みしまみぞくいひめのみこと)のもとに夜な夜な通われ、明け方になると美保の社にお帰りになっていました。ところがある夜、一番鶏が時刻を間違えて、まだ夜も明けないうちに刻(とき)の声をあげてしまいました。急いで帰路についたところ、あわてられたせいか途中で船を漕ぐための櫂(かい)を海中に落とされ、仕方なく足で掻いている時に、その足をワニ(サメ)に噛まれ不具になられました。やっとの思いで美保に帰り着いたえびす様の耳に、今度は正確な刻の声が聞こえました。怒ったえびす様はそれ以来ニワトリを忌むべきものとされたと伝わっています。
以後、里(美保・揖屋)の人は鶏肉、鶏卵を食べず、鶏を飼うこともご法度としました。
 えびす様は、右手に釣りざおを持ち、左手に鯛を持ち片足を曲げておられるのはこの時の傷だからだそうです。
ですので、鶏の卵、メンドリも嫌いで、オンドリが特に嫌いという訳なのです。
ちなみに、この時期、オンドリがコケコッコーと鳴くのは何時ころか、アナタはご存じでしょうか。五月のいま、午前4時、もしくはそれより15分早い時刻です。
手こぎの船では1時間以上は余裕でかかると思いますが、そこは神様ななのでしょう。
それはともかくとして、美保神社の神事には国譲り神話にまつわる青柴垣神事があります。この神事を取り仕切るのは氏子なのです。くじ引きで当家に当た美保神社の氏子は交代で1年間ないし4年間、さまざまな厳しい修行をするそうです。その間、鶏肉も鶏卵も食べられないのだといいます。
毎朝、海に入って身を清めて、一年間続ける事など真冬にも行うのです。

地元の一般市民によって千何百年ものあいだ受け継がれて神事を行うのも神様の偉大な力と伝統を絶やさないという心意気には、頭の下がる思いがします。



出雲市斐川町にある仏経山(ぶっきょうざん)登山に挑戦してきました!

2016年05月17日 13:43   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。

今回は、出雲市斐川町にある仏経山登山の話題です。
この山は、出雲風土記に記されていた神名火山(かんなびさん)と呼ばれていましたが、今は仏経山(ぶっきょうざん)と呼んでいます。神の山から仏の山に呼び方が変わった全国的にも珍しい山です。標高は366mです。高さ的にはそんなでもありませんので、楽に登頂出来るのではないかと挑戦してみました。
仏経山登山者用駐車場に車を止めて、いざ出発です。山陰道がすぐ近くにあって、走行する車のエンジン音が絶え間なく聞こえます。仏経山トンネルもすぐそこにありました。
最後の民家までは約100mまで、アスファルト舗装の道路があって、その先は行き止まりになっています。そこのすぐ手前に登山入口の看板がありました。
リードをつけた犬と放し飼いの犬2匹が私たちを出迎えてくれました。
登山道に足を踏み入れるとそこは、路幅が50cmもないくらいで、竹の葉や木の葉が足元には沢山積もっています。それに昨日の暴風で竹が倒れて路を塞いでいました。竹林浴ゾーンを過ぎると路には、ますます石ころや木の根っこがあったり勾配は急だったりして簡単には登れません。思ったより辛い登山になりそうです。
耳をすましてみるとちょろちょろと水が流れる音がしています。山水(やまみず)なのか池でもあるのかは竹や樹木で判別出来ませんでした。あとで、調べてみると美しい池があったようです。
三方を樹木に囲まれた森林トンネルをひたすら進みます。上を見上げると木の葉の間から少し木漏れ日がしています。足元の悪さに10分も歩くとすでに汗が滲んできてハーハーともうきつくなってきました。時々ある20~40cmの芽っ子の段差が余計に路を険しくしています。険しい路ですが、時折、広い路幅と平らなところがありました。5分くらいずつ休憩をしながら登ります。山腹には、展望出来るような開けたところまで登ってきました。斐川平野が一望出来ます。出雲空港はもう少し東の方向なのか視界には入りません。
今回はちゃんとトレッキング シューズを履いてきましたのでまだ、ましですが、とてもスニーカーでは無理そうです。
登山路入口からすでに40分近く時間は過ぎています。ここで、パーカーは脱ぎ捨ててリュックに押し込みました。お茶を飲んで出発です。
よく踏まれた登山道をしばらく進むと、巡視路は直進方向に続いていますが、登山道は右へ分岐します。分岐点には指導標が立っていますので迷う事はありません。山腹につけられた道が続きますが、このあたりからは、より一層急に滑りやすくなりますので、一歩一歩ずつゆっくりと登って行きます。
見晴らしはないものの、明るい木漏れ日の射す登山道を快適にしばらく進むと、坂の傾斜がきつくなり、ロープの渡された坂道を登ります。このロープは約10mくらいありますが、下半分は直径3cmくらいですが上半分は工事現場のトラロープみたいでか弱いものでした。一層きつくなった路を登ると空が開けて頂上広場に到着しました。
登って来た路を下山するのかと思うと気が滅入りそうです。
やっと到着です所要時間は約1時間30分もかかりました。。
まず目につくのは、広く平坦な展望広場の中央には南無妙法蓮華経と彫られた石塔が立っています。北の展望を眺めると斐川平野が広がっています。
きょうは、霞み気味の展望ですが、眼下に広がる景色は美しいですが、頂上周辺に立木があり視界が不十分な感じです。展望広場入口には、案内看板があり、仏経山のいわれが説明してあります。
案内にはこう書かれています。
 出雲平野から南を見ると、ひときわ高くそびえ立つ山を古くから神名火山といっていました。出雲風土記(733年)に「神名火山という」とあります。神名火の名火は、かくれこもるという意味がありますので、キサヒの神がおしずまりになっている山といわれています。これを今は、仏経山と読んでいます。
 戦国時代中国地方に勢力をもっていた武将尼子経久は、この山に十二の寺を建て、薬師十二体を安置し、山の名も仏経山と改めて、尼子家の安泰を祈ったといわれます。神の山が仏の山に変わるという全国的に珍しい山です。
 また東の峰には、天保年間に建てられたと言われる石塔があり、新川を開通した時、無縁仏の霊を祀ったものと言われています。
「斐川町史より」
頂上広場を左の方向に100m進むとNTTの中継アンテナがありました。本当の頂上はこの辺りかもしれません。昔も今も一望にみわたして斐川平野を見守っている神様の山なのでしょう。
1時間程昼食をとって下山しました。帰りの時間は約1時間かかりました。
登山道入り口から3時間40分の行程でした。GW中でしたが登山道ですれ違ったのは家族連れ人組だけでした。山では、すれ違うと必ず「こんにちは。」と挨拶をします。なのに下界ではあんまりご近所さん以外はしません。いつもながら不思議な思いで仏経山駐車場を後にしました。
今日は、とても気持ちの良い汗をかきました。