島根にも赤穂浪士の寺坂吉右衛門が関わっていました!!
ハウル@矢野です。
少しずつ寒くなり、車のタイヤ交換を急いでする光景を目にする時期となりました。
今朝には、松江市にも初雪が降ったようですが、私の行動範囲では確認出来ませんでした。恐らくは、峠かなあと思います。
それはそうと、12月14日、正確には15日の早朝になります。日本人なら誰も(?)がご存じの「赤穂浪士の吉良邸討ち入り」が行われた日でした。
よくよく調べてみると、午前3時30分から1時間30分程の間の事のようです。広い吉良邸の台所の倉庫に隠れているところを赤穂浪士の名前は忘れましたが、槍で突かれて打ち取られたようです。大河ドラマでは庭に引きずり出されて、首をはねられるという場面が多いですね。
赤穂浪士討ち入りの日の14日、四十七士のうち唯一生き残った寺坂吉右衛門の墓がある島根県江津市黒松町の信行庵(しんぎょうあん)で恒例の法要が営まれ、地域住民ら約30人が手を合わせ冥福を祈りました。
寺坂は吉良邸討ち入りの後、大石内蔵助から本懐を遂げたことを報告する使者を命じられ、生き延びたとされています。
博学の私は全く存じ上げませんでしたが、地元の伝承によると、寺坂は任務後、諸国遍歴の折、黒松町に庵(いおり)を結んで一時過ごしたといいます。その後、江戸で83歳で亡くなり、黒松町にも分骨されて墓が建立されたと伝わります。
武士道や忠臣を尊ぶ日本人にとって、特に明治維新後終戦まで「忠臣蔵」は脚本家によって様々な伝え方をしています。
討ち入りに大石は、門前で陣太鼓を叩いたとかこれって、嘘っぽいですよね。夜中ですから、遠くまで聞こえるのは当然、奇襲攻撃にはNGですね。
一方、吉良は、そもそも、公家と仲良くするくらいですから、野蛮(?)な武士は大嫌いだったそうです。吉良の髪型をみても、兜をかぶって戦闘する体をしていなかったのです。それに、仇討は昼間に街道か果たし合いが主流だったとか。
吉良よりにみると静岡の領地ではいいお殿様ぶりで尊敬されていたといいます。
歴史好きの私の見解としては、江戸城の松の廊下で浅野のお殿様が吉良を殺していたら討ち入りはなく、多くの浪士が死ななくてもよかったという事も感じたりします。複雑な思いをする方も多いのではないでしょうか。