松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

江戸時代までは、動物の肉は鶏肉だったの?!

2018年02月15日 11:57   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。暦の上では、季節の分かれ目となる節分も立春も過ぎましたが、まだ真冬のような寒さが続いていますね。寒波は、いささかもうお腹いっぱい、胸いっぱいといったところでしょうか。
正岡子規は、「春立て鴨(かも)の心のいそがしき」と今の季節を俳句にしました。宍道湖や中海に飛来して冬を越したコハクチョウやカモなどの水鳥たちも、そろそろ帰り支度を始めるころですね。渡り鳥がV字形の編隊飛行をするのは、空気の渦を利用することで、使う力を少なくする省エネのためだそうです。長旅を乗り切る知恵なのでしょう。
 ところで、渡り鳥を含む野鳥と日本人の関係は、食生活の近代化に伴って大きく変わったそうです。仏教の影響もあり675年を最初に、たびたび出された「肉食禁止令」で牛、馬、猿、犬、鶏を食べることが禁じられたため、野鳥は江戸時代まで貴重な栄養源だったそうです。縄文人は、狩猟民族だったんじゃあなかったでしょうか?
当時の料理本には20種類前後の野鳥が食材として登場していたらしいのです。雉子(きじ)や雁(がん)、鴨、鶉(うずら)はもちろん、今の感覚ならひんしゅくを買いそうな鶴や白鳥、鴇(とき)、鷺(さぎ)も含まれるらしいのです。「鶴の恩返し」の昔話の時代でも鶴を食していたのでしょうか?冬場は雁や鴨が重宝され、ネギやセリを合わせて臭みを消したという事です。裏返せば当時は、それだけ多く野鳥が生息していたことになるし、誰もがそれを疑う事もなく過ぎていたのでしょうね。
私は、今年も、飼育された合鴨を鴨鍋をいただこうと思います。




出雲空港 仙台線は4月20日に就航します!!

2018年02月15日 10:34   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。昨日は、中国地方に春一番が吹いて、松江市内の雪もそのほとんどが消えました。でも、季節が進んだ訳ではありません。寒の戻りがきっとあるのでしょうね。
さて、山陰には新幹線はありませんが、「出雲縁結び空港」には今春からまた新規の航空定期路線が開設されます。
静岡市に本社を置く地域航空会社のFDA・フジドリームエアラインは、東北と山陰とを結ぶ初の定期航空路線、出雲・仙台便を4月20日に就航すると発表しました。
ダイヤは出雲を午前10時半に出発し、仙台には正午に到着。折り返し便は仙台を午後0時半に出発し出雲には午後2時に到着します。就航記念として、搭乗45日前に予約すれば片道の価格が7,777円になる期間限定運賃を設定するということです。現在、出雲・名古屋便を毎日2往復運航しているFDAは昨年度の搭乗率(去年11月現在)が72.3%と好調なことから、地方路線を拡大できるチャンスと見て仙台便に加え静岡便も今年3月から1日1往復運航することが決まっています。
陸路では多くの時間がかかりますので、私たち盲導犬ユーザーにとっても、乗換がなく直行便というのが大変に有難い事ですね。旅行地の選択範囲が増えました。
「出雲縁結び空港」からの直行便を紹介しておきます。
出雲-札幌(新千歳)
出雲-仙台
出雲-東京(羽田)
出雲-静岡
出雲-名古屋(小牧)
出雲-大阪(伊丹)
出雲-隠岐
出雲-福岡
思ったよりたくさんの路線がありました。どうぞ、ご利用下さい。




日本全国で新幹線が通っていないのは山陰だけ?!

2018年02月13日 14:21   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。昭和56年以来の特に北陸地方を襲っている豪雪で被害にあわれた方々にはお見舞いを申し上げます。
こちら松江市でも山日本海側ですので、約50cmの積雪があり、プロジェクトゆうあいの回りでもまだ、相当に残雪があります。盲導犬のハウルもあちこちに雪の小山がありガイドしにくそうです。
先週木曜日には、松江城のお堀を巡る堀川遊覧船のコタツ船も川に貼りついた氷であえなくその日は、運休となりました。何年ぶりのこの寒波ですので、めったに見られない厳冬の堀川も風情があって私は好きな松江の景色です。
前置きが長くなりましたが、今回は、「日本全国で新幹線が通っていないのは山陰だけ?!」という話題です。いつだったかもう忘れるくらい前に山陰新幹線の整備が計画されていました。確か、1973年だったでしょうか?その後、棚上げになってしまいました。此処にきて、日本各地では新幹線網の整備が始まったような雰囲気です。松江市に住んでいると大阪・名古屋・東京まで陸路で行こうとするとなんらかの方法で、山陽新幹線の最寄り駅までいかなければなりません。中国山地を縦断する「特急スーパーやくも」で2時間30分かけて、岡山駅まで乗車しますが、この伯備線の線路が悪いのか列車が古いのかなんとも乗り心地がお世辞にも良いとは言えない時間を過ごすのです。
この計画は、京都府から鳥取、松江を縦断し、山口県までを結ぶ「山陰新幹線」の整備計画です。早期実現を求める大会が11日、松江市で開かれ、関係府県選出の国会議員を含む約450人が出席しました。私も申込をしたのですが、会場がいっぱいだという事で参加する事ができませんでした。残念!
大会には整備を求める山陰や兵庫、京都など2府5県の52市町村でつくる「山陰縦貫・超高速鉄道整備推進市町村会議」が県内で初めて主催し、自治体や経済界の関係者約450人が機運を高めました。
大会では、同会議の深沢義彦会長(鳥取市長)が「日本海側の地域の発展には早期実現が必要だ」と述べ、整備計画への格上げに向けて声を上げていくよう呼びかけました。また、松浦正敬副会長(松江市長)は、岡山―松江間の中国横断新幹線(伯備新幹線)も基本計画になっているとして、「実現すれば二つの新幹線が縁結びの地で交わりより発展する」と訴えました。
「山陰新幹線を実現する国会議員の会」会長で同党の石破茂・元幹事長は、整備費が約3兆円と試算されていることを紹介しました。「早期実現には(整備費を安くできる)単線も考えるべきだ」と述べました。石破氏には出席者から「党総裁選に立候補して党の公約に掲げてほしい」と求められる一幕もあったそうです。
山陰両県ではここ10年で20万人の人口喪失がありそんなにのんびり構えておられない事情があります。山陰両県の一県民としては応援しないではおれません。!



「冬はつとめて」といったのは昔の冬?!

2018年02月01日 11:36   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。「おー、さむッ。」それはそのはずです。大寒の最中です。今しばらく、立春までお待ちくださいませ。
しかし、今日からは2月、如月です。もう一枚重ね着」をするという意味もあるとか・・・。
清少納言は、「枕草子」で冬と言えば早朝?と書いています。
「冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず・・・。」
続いて現代語訳では、
「冬は早朝。雪が降っているのはいうまでもない。」
冬と言えば雪ですが、それは最早いうまでもないのです。
雪が降るのは当たり前の日本の冬の情景なのです。私は雪が木の枝や山に積もっている所や屋根から氷柱つららが垂れている所とかが好きなのですが、そんなのが綺麗なのは誰もが知っていることですね。因みに、木の枝などから滑り落ちてくる雪の事を「垂雪しずりゆき」といい、木の枝などに積もった雪が落ちることを「垂しずり」というそうです。これも、日本人ならではの繊細な表現ですね。日本人に生まれてよかったです。
冬の早朝にふさわしいとして炭火を持って行き来する様子をあげていますが、現代ではその様子を想像することしかできませんね。
きっと宮中で生活していた清少納言はお付きの人が火を部屋まで持って来てくれる様子や、他の人の付き人が火を急いで運んでいるのを部屋から見ていたのでしょうね。
朝早くから寒い廊下をバタバタと火を運ぶ人たちが行き来するのを見て「冬が来たなぁ」としみじみ思うのは、恐らく運んでもらう側だけではなく運ぶ側も同じことだったのでしょう。
当時の暖房器具は、農家であれば「爐」、宮中など貴族の屋敷では「火鉢」くらいしかなかったのでしょうね。現代の日本では暖冬で、当時より数度は寒かったに違いありません。でも、日本家屋は「夏をもって旨と那須」ですから風通しのいいのを重んじています。寒いのは着物を重ね着すれば、凌げるが暑い方が辛かったのでしょうね。
今はスイッチひとつで暑いも寒いも凌げますので、現代に生まれてよかったですね。



日本人の旅の始まりはお蔭参りだったの?!

2018年01月30日 11:31   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。日本列島は暦の通りに大寒の厳冬です。ご多分にもれずにこちら松江市でも毎日、零下の気温です。大雪で災害を受けられた方々にはお見舞いを申し上げます。
さて、人は老若男女また、身体に障がいがあろうとなかろうと、人は、金銭欲・食欲・性欲・旅欲など人それぞれで、各欲の大小はあれそれを達成?すべく生きていますね。
今日は、その中でも旅欲についての話題です。
少し調べてみると、一般庶民の旅の始まりは、江戸時代からのようです。しかし、当時は関所が置かれたり、そもそもは藩外へは出られない事となっていましたね。参勤交代の藩士や僧侶など著名な人は藩から通行手形を発行してもらい関所を通っていました。
参勤交代の制度のおかげで道路網が整い、一里塚ができ、宿場が整えられていきます。人々は自分の生まれた土地から一生出ることはできませんでしたが、ひとつだけ許される場合がありました。それがお伊勢参りなどの寺社詣と、病気やケガ治療のための湯治旅です。
温泉に関して言えば、この時代は温泉に関する研究も進んでいます。医学の発達とともに温泉は宗教としての意味合いを薄くしていきます。
このころに出された書物として「一本堂薬選続編」(1738)があります。温泉の効用について詳しく書かれています。
話を戻します。
寺社詣のためなら、誰でも旅に出てもよいとはいっても、旅に出るには多くのお金を用意しなくてはなりません。
ところが、武士や大商人だけでなく、
年貢を搾り取られていたはずの農民たちも相当数旅に出ていました。
それでは一体、どれくらいの人たちが旅に出ていたかといいますと・・・
伊勢神宮にはこの時代、多くの人(推定年間100万人)がお参りをしていたのですが、
大体60年に1回くらいの周期で伊勢神宮に全国から津波のように人が押し寄せたようです。ぬけ参り・おかげ参りと言います。
記録によるとその数、年間200万から300万もいたそうです。
大商人や武士ならいざ知らす、庶民たちは旅費など工面できるはずもなく、実際のところ何も持たずに,家人にも告げず、熱病にかかったように突然旅出っていったそうです。
彼らは集団を作り、白衣に菅笠でのぼりや万灯を押し立てて、「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌い踊り歩いたので、ひと目でそれと分かります。
お金に困れば道筋の家々が食べ物や宿泊の場所を与えてくれました。(それでおかげ参りと呼ばれるようになったんだそうです)
また、「講」を作ってみんなでお金を出し合って順番にそのお金を持って旅に出るというようなこともしていたようです。
このようにしていったん旅に出てしまうと、お伊勢参りを口実に、京、大阪見物をしたり、名所旧跡めぐりなど、自由な旅を楽しむことができたのです。
各藩は湯治のために温泉の整備を進めていましたが、庶民でも許可をもらって入ることができるようになってきたため、
温泉につかってのんびりと過ごす人も大勢いたそうです。
人々を日常のあらゆる拘束から解き放った寺社参りの旅は、こうして観光・娯楽の色合いを強めていったのです。
旅の盛んなこの時代には、旅のガイドブックのようなものもいくつか出ていたようですね。
また、旅行会社のようなものもあったそうです。宿泊の宿にその看板を掲げて、いたとも聞いています。
現代、移動時間も短く情報過多の時代とは想像もつかないところではありますが、それだけ、未知の楽しみに期待するのは旅欲の原点ですね。