ハウル@矢野です。
まだ風薫る5月だというのに熱中症になりそうなほどに気温が高い松江市です。
いよいよ6月17日よりJR西日本の豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス瑞風(みずかぜ)」が走るとあって、停車するJR宍道駅では、駅舎を看板を書き換えたり地元特産の来待石(きまちいし)や八雲本陣風に格子を使って改修工事をしてアピールし乗客の訪問を待っています。
さて、今回はJR松江駅北側すぐにあります「松江テルサ」1階に常時設置してある松江城天守閣(金属製)の約1/50の模型を私たち視覚障害者のためにガラスケースを外して触らせていただきました。
皆さまご存じのように松江のシンボル松江城は全国で現存する12天守のうち、国宝の一つで唯一の正統天守閣ともいわれています。また、城跡は国の史跡であり、。2015年5月には天守としては63年ぶりに5つ目の国宝に指定されました。
概略は、5層6階の望楼型の天守で、まだ、戦国時代の名残を残して外壁は漆喰塗の白い綺麗な姿ではなく、板に漆塗りの黒い姿です。
天守閣正面中央上に入母屋破風(いりもやはふ)と呼ばれる桃山時代の建築様式を取り入れた三角屋根があり、千鳥が羽をひろげた姿をしていることから、別名千鳥城(ちどりじょう)とも呼ばれています。慶長16年(1611)出雲・隠岐の領主堀尾吉晴が5年の歳月をかけて築城させました。高さは約30mあり、広さ,高さは全国に現存する12天守閣の2番,3番にあります。特徴は、最上階が四方を見渡せる望楼式で、壁は白壁が少なく、黒く厚い板で覆われ、石垣はごぼう積みと呼ばれる強固な積み方がされています。象徴的な美しい城というより、実戦を想定して建てられた城の様ですね。
城主は、堀尾吉晴,忠氏,忠晴の3代、京極忠高の治政を経て、寛永17年(1638)からは初代藩主松平直政が城主となり、以来松平氏10代234年にわたって出雲松江18万6千石の藩主となりました。
1階には付け櫓が大きくもうけられてありどっしりしたイメージをかもしだしています。
中に入って見ると真ん中に井戸がありこれが八雲の「ぎりぎり井戸」の怪談に搭乗しています。地階(穴蔵の間)は、籠城用生活物資の貯蔵倉庫となっているようです。深さ24メートルの井戸があり、北方の池の底とほぼ同底で常時飲料水が得られたそうです。
2階の四隅と東・西・北壁にある幅広い穴が石落としで、石垣に近づく敵に石を落とすようになっています。外部からは発見しにくいように構造物を利用した石落としです。
各階の階段は、桐の階段で板の厚さ約10センチメートル、階段の幅1.6メートルで1階から4階の各階の間に設けてあります。階段を引き上げたり、防火防腐のために桐を使ったもので他の城では見られない特殊なものです。
また、天守を支える柱には、一面だけ、あるいは二面、三面、四面に板を張って、鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で留められているものがあります。これは「包板(つつみいた)」と呼ばれ、天守にある総数308本の柱のうち130本に施してあり、割れ隠しなど不良材の体裁を整えるためのものと考えられています。
石垣は、「野面積み」と「打ち込み接」(全体の6割)という石積み手法です。
石垣積は、築城工事にあたって、全体の半分以上の労力を要したと云われています。
松江城は5年間で完成しましたが、そのうちの3年間を石垣に費やしました。
石垣積みは、穴太頭二人が ※穴太衆(一族)・子供衆(見習い)を従え、石工は大阪から招き石垣を構築しました。
穴太衆(あのうしゅう)とは、石垣築成集団の事です。穴太とは地名(大津市坂本町穴太)。この地には、中世から近世にかけ石垣の築成に優れた技能を持った達人がいました。松江城の石垣もこの「穴太衆」が招かれ築成しました。
野面積とは、自然石や割石を積む方法の事です。
打ち込み接(はぎ)とは、石切り場で切り出した石の、平坦な面の角を加工し、合わせやすくした積み方の事です。
皆さまも来松江のおりには前もって松江市観光協会に予約すれば、触らせていただけるかもしれませんよ!
誇れる松江城、どうぞお楽しみください。
ハウル@矢野です。
春季もあと残すところ半月となりました。
今松江市ではプロバスケットボール チームのスサノオ マジックが一部昇格のニュースに盛り上がっています。
さて、来年4月1日で廃止されるJR三江線(三次市-島根県江津市、108キロ)で、「さよなら乗車」に鉄道ファンのみならず最後の乗車にぞくぞくと訪れています。閉店セールに客が多くなるとの例えなのでしょうか?沿線では自治体が地元の特産品を生かしたPRやおもてなしに乗り出し、地域活性化の気運を廃止後にもつなげようとしています。
三江線は広島、島根両県の6市町に計35駅があり、中国山地の山あいを走ります。
沿線の大半を中国太郎の異名をとる江の川と並行して運行し、四季折々の景色や自然美が楽しめます。全国から訪れるファンが後を絶たず、JR三次駅(三次市)を始発する列車内は、酒や菓子、カメラなどを持参した遠方からの観光客らで座席が埋め尽くされています。
三江線の始発は三次、江津の両駅で、それぞれ午前5時台です。終点到着まで途中停車しない場合、3時間以上もかかります。両駅とも出発するのは1日5本のみで、実際に乗客が途中下車するケースは多くありません。
そのため、列車の旅を楽しむ観光客は、始発駅で前日に宿泊したり、終点駅で当日宿泊したりして、それぞれの地域の観光名所を巡ることも多く、また、一部の便の終点となる石見川本駅(島根県川本町)前では、観光客の増加に伴い町観光協会が昨年12月、空き店舗を活用して「三江線おもてなしサロン」を開設しました。町と地元住民が協力して、町内で昼食ができる飲食店や観光地を載せたチラシを配布。特産エゴマを使ったお茶の提供サービスもしています。 こうした後押しもあり、町観光協会によると、4月は、昼便で駅を下車した人数が「確実に増えている」(担当者)という。
車両の運用状況にもよりますが、神楽のラッピングがされた車両が多用されています。
種別が普通しか存在せず、しかも駅数が多く、所要時間も長く、全線乗り通すには、最速でも4時間52分を要します(乗車時間は3時間25分)
本数も1日に僅か4~5往復(その内全線通し運転は下り2本・上り1本)と、極端に少ないです。
廃止された後では、レーダーを使っても島根県コンプが(車がないと)困難になると思われるので、今のうちに乗っておくのが吉。その上、三江線は付近の高速道路からすべて取得可能というわけでもなく、沿線は酷道も多い上に、
廃止後はバスも地区ごとの輸送に徹するため全線通して乗り通すのは不可能となりそうです。
中には代替バスもなくなる区間も出てくる可能性が高いため、鉄路が残っているうちのコンプを重ねて推奨します。 また、「江の川鉄道」の愛称があり、その名の通り江の川(ごうのかわ)に沿ってグネグネと走り、時速25kmあるいは15kmといった、低速の速度制限がかけられている箇所も少なくなく、ただ、景色は新緑の頃も紅葉の頃も見応えは十分です。
更に、沿線あるいは近傍で2泊以上する事により、“天空の駅”として知られる宇都井駅や、朝9:06に下りの最終列車が行ってしまう長谷駅等の、著名な観光名所を訪れる事も出来ます。
「折角田舎の長大ローカル線に乗るのですから、1日、いや2~3日潰しても良いのではないか」くらいの鷹揚な気持ちで臨んだ方が十分に満喫して楽しんだ方が心の為にはよさそうですね。
ハウル@矢野です。
春も進み、桜からツツジに移りあじさいへと変わろうとしています。郊外の田園地帯では田植え真っ盛りですね。間もなくカエルの大合唱となる事でしょうね。
さて、案外知らない地元の観光または由来が多い事に気がつきませんか。
4月28日に夕日にまつわるストーリー「日が沈む聖地出雲」が日本遺産に認定されました。
島根半島の西端に位置していますので、夕陽が美しい事はその風景を見れば誰もが納得します。松江市の宍道湖の夕陽も絶景なのは元より、そもそも神国の出雲国は夕陽の国なんですね。陽がいづる国ではなさそうです。
タイトル
日が沈む聖地出雲 ~神が創り出した地の夕日を巡る~
ストーリーの概要
島根半島西端の海岸線は、出雲神話の舞台となった「稲佐の浜」と「日御碕」の名で親しまれ、そこから見る夕日は絶景です。しかしこの海岸線に、夕日にちなんだお社である「天日隅宮(あめのひすみのみや)」(出雲大社)と「日宮(ひしずみのみや)」(日御碕神社)が祀られていることはあまり知られていません。
古来、大和の北西にある出雲は、日が沈む聖地として認識されていました。とりわけ、出雲の人々は夕日を神聖視して、畏敬の念を抱いていたと考えられます。
海に沈むこの地の美しい夕日は、日が沈む聖地出雲の祈りの歴史を語り継いでいます。
詳しくは下記URLよりアクセス下さい。
「日が沈む聖地出雲」が日本遺産に認定されました! | 出雲市
http://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1493026512141/index.html
▼日本遺産とは
「日本遺産(Japan Heritage)」は地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。
「日が沈む聖地出雲」が日本遺産に認定されました!
ハウル@矢野です。
GWがスタートして、こちら山陰各地でも大賑わいのようです。どこかに旅行に出掛けなくてはと焦っているばかりです。
出雲の観光地のにぎわいの報告です。
出雲大社(出雲市大社町)周辺では通常の休日の2~3倍の人出となりました。出雲大社の神門通りでは、観光客らで土産物店の中がごった返し、昼食時には行列ができる出雲そば店もあり、まごまごしていると昼食にありつけない人もいたとか、いなかったとか。それもそのはず、出雲大社を基点として稲佐の浜や日御碕地区を中心とした観光地では、28日に日本遺産に認定されたばかりなので、余計に地元や県外からの観光客も多いのは理解できます。
また、弁慶にゆかりのある出雲市別所町の鰐淵寺(がくえんじ)では、恒例の「武蔵坊弁慶まつり」があり、住民が扮(ふん)する僧兵や、釣り鐘を担いだ弁慶が、雄たけびを響かせながら本堂までの林道約1キロを練り歩きました。鰐淵寺で修行していた弁慶が、鳥取県大山町の大山寺から一夜にして釣り鐘を持ち帰った伝説にちなみ、地元住民でつくる実行委員会が毎年企画し、40回目です。弁慶役は毎年、地元から選ばれた屈強な体格の男性が担当しているといいます。釣鐘は、勿論、鉄製ではないのですが、さも重そうにかつがなければなりません。
松江市八束町では、350人が参加して、「大根島牡丹(ぼたん)ウォーク」が開かれ、見頃を迎えたボタンの花や菜の花など、島の春景色を眺めながら、気持ち良い汗をかきました。このイベントは、春好例の「大根島ぼたん祭」の催しの一つとして開かれました。皆さま、ご存じのように大根島は牡丹や雲州人参で有名ですが、なんといってもこの季節が牡丹の開花で島が沈むのではないかと心配するほど観光客が訪れます。この島は、中海浮かんでいますが、鳥取県側からまた、島根県側からも地続きになりアクセスしやすい事から絶好のスポットです。また、お土産も牡丹や雲州人参にちなんだ物なども見逃せませんよ!
GW後半にも数多くのイベントも企画されているようですので、またレポートします。
みなさん、GWを楽しみましょう!!
ハウル@矢野です。明日からGWウィークに突入し、既に松江市には県会車の姿が目に付いてきました。今年の島根県に来られる観光客予想は80万人です。その内43万人が出雲大社だそうです。松江城周辺には15万人だとか。天候もまずまずのようです。
さて、一般的に「こどもの日」と言われている端午の節句は、男の子のすこやかな成長と立身出世を願う行事です。古代中国では、5月は物忌み(行動と慎み、身が汚れないようにする)の月とされ、この時期には邪気や悪霊を祓うために菖蒲(しょうぶ)湯に入り、菖蒲酒を飲んだりする習慣があったそうです。端午の端は「はじ・最初」、午(うま)は「午の日」、つまり端午とは、5月の最初の午の日という意味です。ですので、このお節句、はじめは必ずしも5月5日ではなかったようですが、午と五の音が同じことから、五が重なる重五の日、5月5日が厄払いの日として定着していったそうです。
日本でも平安時代に5つの節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)が取り入れられ、当時の貴族の間では、季節の節目の身のけがれをはらう大切な行事になっていきました。
これが、宮中から鎌倉の武家社会へとひろがります。武士は菖蒲を「尚武=武芸を尊ぶ」とかけ、盛んに端午の節句を祝うようになりました。
この流れを受け、江戸幕府が、5月5日を重要な式日の日と定め、大名や旗本が将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝いました。これらの風習がやがて裕福な庶民へとひろがったそうです。
江戸時代、庶民は幟を立てられなかったので、かわりに鯉のぼりをあげるようになります。やがて、紙の兜や人形を飾るようになり、これが武者人形などに発展したそうです。
鯉のぼりは「鯉が滝をのぼりきると竜になる」という中国の故事に由来しているそう。黄河の上流の急な流れを鯉が上るということから、鯉は出世魚とされ、子どもの立身出世の象徴となったようです。
また、鎧兜(よろいかぶと)は古くから命を守る象徴として考えられ、事故や病気から赤ちゃんを守ってくれるという願いをこめて飾られています。
最近ではイベントで河を挟んでロープを引っ張って何百匹の鯉のぼりが泳いでいる風景も見られます。核家族化した世帯が多くなり、屋根より高い鯉のぼりを立てるのは難しくなってきていますね。「鯉のぼり」の歌も現実的ではなくなりましたね。また、ちまき(笹巻き)が定番でしたがこれもあまり見られなくなりました。そもそもの意味とか由来が霞んできましたね。
さて、松江では今、筍が旬で、多くの家庭で嘱託に並んでいます。安来市島田町では今年も筍の出来栄えは良いとの事で、道の駅や国道9号線沿いでは直売所でGW中は販売しています。
ぜんまいやわらびもぼちぼちで始めました。また、ツツジも咲き始めてきました。
こちら山陰でおんぼらとした(出雲弁でほんわか ゆったりとした)風景や人情に触れて下さい。