華道日本の三大流派「小原流」の創始者、小原 雲心は松江市生まれです
ハダル@矢野です。
11月に入り、旧暦10月となり、出雲では、出雲大社に全国から神様がお集まりになり、来年の縁結びを会議されています。
でも、皆様のところも留守番の神様がちゃんと見ておられるそうなのでご安心ください。
さて、今回は、華道日本の三大流派「小原流」の創始者 小原 雲心は松江市生まれという話題です。
松江市雑賀町(さいかまち)で生まれた小原(おはら)雲心(うんしん)は、明治時代の終わりごろ、華道生け花「小原流(おはらりゅう)」を新しくつくりました。
底が広くて浅い花器の中に、花を盛るように生ける独創的な「盛花」を生み出しました。
今では、300以上といわれる流派(りゅうは)の中で池坊、草月とともに、三大流派として知られています。
雲心は生家の高田家が代々、陶芸を職業としていて、父の友人から生け花を習いました。
1880(明治13)年、市内竪町(たてまち)の小原家に移転の養子になります。
小原家は代々、松江藩の御用金に関わる仕事をしていた裕福な商家でした。
雲心は、お茶やお花に親しむ不自由のない生活を送り、彫刻家(ちょうこくか)の荒川(あらかわ)亀斎(きさい)ら松江の有名な工芸家と交流を深めました。
そして、明治時代になると藩の支えがなくなり、当主の死去もあって小原家は次第に没落していきました。
雲心は1889(明治22)年、彫刻家を目指して大阪へ行きます。
才能が花開き、京都美術展に出品した作品が明治天皇お買い上げの名誉を得ました。
彫刻家としての雲心の名声は高まり、制作依頼も増えていきます。雲心は彫刻家としての通称です。
しかし、持病があり医師の勧めもあって、体力の消耗が激しい彫刻家を断念し、生け花を仕事にすることにしました。意外にも陶芸家としても一流だったのです。
雲心は1895(明治28)年、花の形や色の組み合わせの美しさを表現する「色彩盛花」を考え出しました。輸入され始めたゼラニウムやシクラメンなど、色鮮やかな西洋の花を積極的に生け花に取り入れました。また、自然の景観を表現する「自然盛花」も生み出しました。
そして、1912(明治45)年には大阪の百貨店で「第1回小原式盛花大会」を開催。生活の洋風化とともに、幅広い世代の関心を集めました。
小原流は5代目家元の現在、国内外に多くの会員を擁する一大生け花流派になっています。
松江市からこのような偉人がおられたのには、ビックリしました。いろいろと調べてみるとまだ他にもあるのかもしれませんね!