松江藩7代藩主松平不昧はこうして経済を立て直した!(後編)
ハダル@矢野です。前編の続きです。
当時の借財は、とても返済できる金額ではありません。
そこで借りた元金だけでも70年かけて返済する約束をとりつけます。商人はよくもまあ、納得?したものです。
つぎは藩内ですが、すべての個人・法人間での貸借契約を無効にするという大胆な法律を出し、一気にかたをつけてしまいました。
つぎは行政改革です。
まずは藩の支出を減らします。 支出の多かった江戸屋敷では無駄な贈り物を廃止しました。 ほか藩士約3000人中、968人が役職をはずれ役職給の支給を減らします。減給となった訳です。 また領地の村では大庄屋という農民の代表が世襲で決まっていました。 しかし彼らも人員入れ替えをして、まったく新しい農政を進めていったのです。
結果、田沼意次政権が転覆する原因となった天明の飢饉も、松江藩は蓄えを放出することで乗り切ることが出来たのでした。
後期、不昧公の時代は積極財政政策です。
江戸の中央では松平定信が失脚し、寛政改革が終了した3年後の寛政8(1796)年、松平不昧は満を持して親政を行います。
そのときの取り組みは父、松平宗衍(むねのぶ)の行った殖産興業政策を本格的に花開かせることでした。
主には以下のような内容があげられます。
例えば、奥出雲のたたら製鉄の経営安定化や鍋釜の製作。
木綿産業や古手と呼ばれる古着を北前船を通じて日本海沿岸地域へ輸出。
ロウはぜを使ったロウソクの製造
朝鮮人参を長崎経由で清国(今の中国)へ輸出
このように藩内の特産品を輸出することで、藩の収入を大幅にアップさせることに成功するのです。
この取り組みは松平不昧の死後も続き、改革がスタートしてから74年後。
天保12(1841)年に松江藩はとうとう借金をすべて返済することになるのです。