松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江藩7代藩主松平不昧はこうして経済を立て直した!(前編)

2019年04月08日 13:04   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。今回は、「松江藩7代藩主松平不昧はこうして経済を立て直した!」という話題を前編後編に分けてご紹介します。
松平不昧は茶道に傾倒し、茶道にまつわる文化を育成することで文化都市・松江を築きあげました。
でも、じつは、松平不昧が松江藩主になったとき、藩の財政は火の車でした。 とても文化にお金を出せるような状況ではありませんでした。
松平不昧はいったいどのような取り組みを行なったことで、文化都市・松江を作り上げたのでしょうか?
松平不昧以前の松江藩は、どんなありさまだったのでしょうか?
松江藩は18万6千石。 結城秀康に始まる越前松平家系列の親藩です。
 しかし松平不昧のお父さん、宗衍(むねのぶ)の代には莫大な財政赤字を抱えていました。
そこで、宗衍(むねのぶ)は一念発起します。
延享3(1746)年に「御趣向の改革」とも「延享の改革」とも呼ばれる改革に取り組みます。
これまでの家老に任せる政治ではなく、藩主自身が取り組む改革を目指し、若手の小田切備中という人を抜擢します。 「趣向方」と呼ばれる改革派のチームを編成。
では具体的に御趣向の改革(延享の改革)とはどんな内容だったのでしょうか?
御趣向の改革(延享の改革)とは?
御趣向の改革(延享の改革)の内容は大きく3つです。
1、金融対策
 2、産業の育成
 3、教育の充実
金融に関しては、まずメインバンクの米子(鳥取県)商人はもう相手にしてくれなくなっていたので、大坂や尾道(岡山県)の商人から融資をしてもらいました。
 その資金を元手に藩営の銀行(泉府方といいます)を経営します。
また年貢を一括で先納すると、減税になる制度をつくり当座の資金を得ました。
それらの資金を使って、次にやったことは産業の育成です。
まずは商品作物の普及。
 木綿や煙草、はぜ蝋、朝鮮人参などです。
そしてはぜ蝋をつかった和ろうそくの製造。
たたら製鉄の生産・流通の管理。
 また、その鉄をただ輸出するのでなく、鍋釜を製造するようにしました。
教育については藩校の文明館を設置したのもこの頃です。
このように10年間、積極的に改革に取り組みますが「御趣向の改革」は残念ながら、宝暦期に挫折してしまいます。
改革失敗の3つのポイント
まずは財政赤字にも関わらず、産業に投資し続けたことで金融不安が発生したこと。
そして宝暦の飢饉への対応。
宝暦10(1760)年に比叡山延暦寺の修復工事を幕府から命じられたこと。
この3つの理由から財政は回復することなく、宗衍(むねのぶ)は以後5年間、病気を理由に5年間江戸に居続けることになります。
この時期、病気を理由に参勤交代をしない大名がでてきていました。勿論、参勤交代をすれば多額の費用がただでさえ苦しい財政なのですから・・・。そして結局36歳で隠居、松平不昧に家督を譲ることになるのです。
後編に続きます。