松江藩は幾多の災難を潜ってやっと国宝に!
ハダル@矢野です。花冷えもやっと落ち着いて、ポカポカ陽気になって来ました。7分咲きといったところでしょうか。明日、4月6日には堀尾氏が広瀬月山富田城から松江城に入場を再現した武者行列が行われます。気温も20℃との予報が出ています。松江市内はきっと沢山の見物客で大にぎわいだと思います。
さて、2015年7月、悲願であった国宝指定が実現した松江城。天守の高さは姫路城、松本城に次ぐ国内3番目。黒が基調の外観は力強く、戦場に建つ古武士のような風格をたたえています。そんな山陰最大の砦と呼ばれる城を築いた武将は堀尾吉晴。
信長、秀吉、家康という3人の天下人に重用され信頼された吉晴は、戦上手として数々の戦場で武功を挙げ、さらに豊臣政権では中老職も務めました。
そんな吉晴の松江城は、実戦で修羅場を潜り抜けて来た武将にしか作れない城。幾つもの城門と櫓が行く手を防ぎ、攻め手を巧みに誘い込んで、一網打尽する罠も数多く仕掛けられています。まさに、どんな武将にも決して落とす事ができない難攻不落の城でした。
しかし時代の波が松江城を飲み込みます。吉晴の死後、三代目となる藩主に跡継ぎが生まれなかった事を理由に、その時、天下を我が物にしていた徳川幕府は堀尾家を取り潰し処分にしました。こうして堅固な守りを誇った名城、松江城は、結局、一戦を交えることもなく無情にも奪われてしまったのです。
堀尾氏のあとに本能寺の変を逃れた森蘭丸の弟が一時藩主候補になった事もありました。堀尾家が無嗣断絶のため改易されると、次の藩主候補になったのが、近所の津山藩主・森忠政でした。
あの森蘭丸の弟(森可成の末っ子)なのですが、本能寺の変の際は事前にちょっとしたトラブルを起こして国元に帰されていたために織田信長の側におらず、結果として森家唯一の生き残りとなった人です。
しかし、内々で話が決まりかけたところで忠政が急死。
代わって小浜藩から京極忠高が入ることになります。
京極家にとって松江を含む出雲の地は旧領であり、念願かなって……のはずだったのですが、忠高もまた、入封してたった3年で急死してしまいました。
次に入ってきたのが結城秀康の三男・松平直政に始まる越前松平家です。徳川家康の孫にあたりますね。
立て続けに藩主が亡くなっていては、イヤ~な噂も立っていそうですが……そんな土地に、幕府から警戒されていた越前松平家が入るとは、何やらアヤシイかほりがしますね。
確かに越前松平家になってからも、藩主の急死や財政悪化などの災難はつきものでした。が、実際は無嗣断絶等にはならず幕末まで続いています。よかったよかった。
まだまだお話は続きます。