花火の掛け声、なぜ「鍵屋」より「玉屋」が多いのでしょうか?
ハウル@矢野です。
梅雨もあと10日以内には明けるのではないかと期待しています。
皆さんは、花火大会で素朴な疑問を持たれた事はないですか?
会場のあちこちで「たまや~」の声が響きますがそれって何?
「たまやって何?」「それって花火屋さんの名前でしょ。」くらいは皆さんはご存じだと思います。
会話の相手がカップルであれ、親子であれ、それ以上は盛り上がりませんね。ここで少し掘り下げてみますので、得意になって話をしてみましょう!あなたのイメージがアップして尊敬?されるかもしれませんよ。
それでは、花火のルーツを織り混ぜて「たまや~」「かぎや~」の豆知識をご紹介します。
そもそも花火は、紀元前3世紀、中国の火薬の発明が戦の武器となり、やがて通信手段のノロシが夜にも用いられるようになって火薬を煌かせる技術が花火へと発展します。
あの蒙古襲来では既に火薬を使った武器を持っていたのを歴史の教科書の絵で見た事はないですか?
慶長18年(1613年)8月6日に徳川家康が日本で初めて花火を観賞しました。日本では種子島の鉄砲に使われた火薬が花火へと発展しました。家康が見たのは竹筒に火薬を詰めて火を噴くだけのものでしたが、三河地方に残る「手筒花火」はこの名残だといわれています。その後花火は急速に発展し、江戸で開花しました。
享保18年(1733年)5月28日に両国の大川(現在の隅田川)にて川開き花火大会(隅田川花火大会の原型)開催。そこで活躍したのが日本橋横山町の花火師、鍵屋六代目弥兵衛です。ここで初めて花火屋さんの登場です。
もともと「鍵屋」は葦(アシ)の管に火薬を詰めて星が飛び出す花火を開発し、商才もあって花火市場をほぼ独占していました。しかし、花火が火事の原因になるため町中では花火禁止令が出され、隅田川の花火だけが許されます。当時は納涼船を出して
「鍵屋」に花火を上げさせるのが、豪商たちの贅沢の象徴だったのです。
文化5年(1808年)「鍵屋」番頭の静七が暖簾分けをし、両国吉川町で玉屋市兵衛を名乗る。やがて川の上流を「玉屋」、下流を「鍵屋」が担当し、二大花火師の競演となる。これを応援するための掛け声が「たまや~」「かぎや~」だったのです。「たまや」は「かぎや」から暖簾分けしたものだったのですね。
天保14年(1843年)「玉屋」の出火で大火事となり玉屋市兵衛を江戸から追放。廃業する。
つまり、「玉屋」が存在したのはたった35年間だったのです。しかし、昔も今も花火の掛け声といえば「玉屋」のほうが断然多いのはなぜでしょう。
さまざまな種類の花火が夜空を彩ります。
「鍵屋」の弟子で後発の「玉屋」。しかも火事を起こして追放されてしまった「玉屋」。
ひとつは花火の技術が勝っていたこと。もうひとつは、語呂が良いので掛け声を掛けやすかったこと。そして、江戸っ子気質がそうさせたこと。
こんな狂歌があります。
『橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋と いわぬ情なし』
これは、実力があったのにたった一代で花火のように消えた「玉屋」への愛情を示したもの。「情」に「錠」をかけており、「鍵屋の声がねぇのもしかたあるめぇ。錠がねぇんで口が開かねぇ」という詠み手の洒落を含んでいます。
黒色火薬で作られる日本古来の「和火」は、朱に近いオレンジ色。情緒豊かで繊細な光りを放ちます。
「鍵屋」はその後も様々な花火を開発して日本の花火界をリードし、現在は女性当主が鍵屋15代目として活躍中です。
音にこだわり、日本古来の花火である“和火”復活に力を注ぐなど花火の魅力を高めていますので、ぜひ「かぎや~」と掛け声をかけてあげてくださいね。