松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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国宝松江城天守に触ってきました!!

2017年05月19日 15:09   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
まだ風薫る5月だというのに熱中症になりそうなほどに気温が高い松江市です。
いよいよ6月17日よりJR西日本の豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス瑞風(みずかぜ)」が走るとあって、停車するJR宍道駅では、駅舎を看板を書き換えたり地元特産の来待石(きまちいし)や八雲本陣風に格子を使って改修工事をしてアピールし乗客の訪問を待っています。
さて、今回はJR松江駅北側すぐにあります「松江テルサ」1階に常時設置してある松江城天守閣(金属製)の約1/50の模型を私たち視覚障害者のためにガラスケースを外して触らせていただきました。
皆さまご存じのように松江のシンボル松江城は全国で現存する12天守のうち、国宝の一つで唯一の正統天守閣ともいわれています。また、城跡は国の史跡であり、。2015年5月には天守としては63年ぶりに5つ目の国宝に指定されました。
概略は、5層6階の望楼型の天守で、まだ、戦国時代の名残を残して外壁は漆喰塗の白い綺麗な姿ではなく、板に漆塗りの黒い姿です。
天守閣正面中央上に入母屋破風(いりもやはふ)と呼ばれる桃山時代の建築様式を取り入れた三角屋根があり、千鳥が羽をひろげた姿をしていることから、別名千鳥城(ちどりじょう)とも呼ばれています。慶長16年(1611)出雲・隠岐の領主堀尾吉晴が5年の歳月をかけて築城させました。高さは約30mあり、広さ,高さは全国に現存する12天守閣の2番,3番にあります。特徴は、最上階が四方を見渡せる望楼式で、壁は白壁が少なく、黒く厚い板で覆われ、石垣はごぼう積みと呼ばれる強固な積み方がされています。象徴的な美しい城というより、実戦を想定して建てられた城の様ですね。
 城主は、堀尾吉晴,忠氏,忠晴の3代、京極忠高の治政を経て、寛永17年(1638)からは初代藩主松平直政が城主となり、以来松平氏10代234年にわたって出雲松江18万6千石の藩主となりました。
1階には付け櫓が大きくもうけられてありどっしりしたイメージをかもしだしています。
中に入って見ると真ん中に井戸がありこれが八雲の「ぎりぎり井戸」の怪談に搭乗しています。地階(穴蔵の間)は、籠城用生活物資の貯蔵倉庫となっているようです。深さ24メートルの井戸があり、北方の池の底とほぼ同底で常時飲料水が得られたそうです。
2階の四隅と東・西・北壁にある幅広い穴が石落としで、石垣に近づく敵に石を落とすようになっています。外部からは発見しにくいように構造物を利用した石落としです。 
各階の階段は、桐の階段で板の厚さ約10センチメートル、階段の幅1.6メートルで1階から4階の各階の間に設けてあります。階段を引き上げたり、防火防腐のために桐を使ったもので他の城では見られない特殊なものです。 
また、天守を支える柱には、一面だけ、あるいは二面、三面、四面に板を張って、鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で留められているものがあります。これは「包板(つつみいた)」と呼ばれ、天守にある総数308本の柱のうち130本に施してあり、割れ隠しなど不良材の体裁を整えるためのものと考えられています。 
石垣は、「野面積み」と「打ち込み接」(全体の6割)という石積み手法です。
石垣積は、築城工事にあたって、全体の半分以上の労力を要したと云われています。
松江城は5年間で完成しましたが、そのうちの3年間を石垣に費やしました。
石垣積みは、穴太頭二人が ※穴太衆(一族)・子供衆(見習い)を従え、石工は大阪から招き石垣を構築しました。 

穴太衆(あのうしゅう)とは、石垣築成集団の事です。穴太とは地名(大津市坂本町穴太)。この地には、中世から近世にかけ石垣の築成に優れた技能を持った達人がいました。松江城の石垣もこの「穴太衆」が招かれ築成しました。
野面積とは、自然石や割石を積む方法の事です。
打ち込み接(はぎ)とは、石切り場で切り出した石の、平坦な面の角を加工し、合わせやすくした積み方の事です。 
皆さまも来松江のおりには前もって松江市観光協会に予約すれば、触らせていただけるかもしれませんよ!
誇れる松江城、どうぞお楽しみください。