7丁目なのに1丁目?!
ハウル@矢野です。大型連休も終わり暦の上では、立夏を過ぎ、青葉が目に沁みる既設となりました。
今回は、「7丁目なのに1丁目?」という話題です。
普通は、住居表示で○丁目○番○号となるのが正式ですね。
松江城の南側約3㎞にあります松江市雑賀町の住宅街に、「七丁目の一丁目」と書かれた何ともおかしな石柱が立っています。この石柱近辺の住所は、「松江市雑賀町792」だそうです。住居表示でもないこの地域だから余計に頭をかしげてしまいます。
それでは、石柱に書かれた文字にはどんな意味があるのだろうか?。少し調べて見る事にします。
以前にも掲載しましたが、雑賀町は、江戸時代に堀尾吉晴公が松江城を築城する際、鉄砲集団「雑賀衆」を住まわせるために作られた町と言われています。
この町割りは、碁盤の目のように南北と東西の直線道路が交わり、当時は雑賀衆の屋敷が軒を連ねていました。
この町割りは、松江大橋から南の竪町交差点と洞光寺を結ぶ道を起点に西へ向かって、東西の道は当時「津田街道」と呼ばれていた現在の国道9号を起点に南に向かって、7本ずつ道が敷
かれています。
「○丁目の○丁目」とは、起点から数えて、何本目の東西、南北の道かを示しているわけです。「七丁目の一丁目」の場合は、国道9号から数えて南に7本目、竪町交差点の道から西に数えて1本目の筋であるということなのです。
雑賀町では、2007年から11年にかけての「松江開府400年祭」に合わせ、こうした旧町丁名を表示した石柱を55カ所に設置し、町を歩く人を楽しませているそうです。
雑賀町をもう少し南に足を延ばせば、ここで松江城の場所を決めたと言われている床几山も含め、松江城が栄えた時代の面影をしのぶことができます。
筆者の仲間内では、地元の由緒ある場所を歩きまわるのがブームになっています。運動不足の解消と歴史の勉強が出来る、一石二鳥の効果がありますね。
もう少し石碑を探しに行って見る事にします。