松江藩にも雑賀衆がいた!
ハウル@矢野です。
城下町でありますところの松江市にも戦国時代にその名を轟かせた鉄砲隊の雑賀衆がいました。
雑賀衆と言えば、紀州(和歌山県)ですね。あの織田信長が攻め和え居ていた本願寺に見方した鉄砲隊の集団です。
初代城主の堀尾吉春が松江に入場の時に連れて来たと言う事です。
松江城城下の南の一角に足軽長屋が形成されました。
足軽の中の鉄砲隊の精鋭が雑賀周と呼ばれていました。
城主が初代堀尾氏、京極氏、松平氏となるころには、雑賀町と雑賀周の名前がつきました。
碁盤の目のような江戸時代の町割りの面影を残し、民家が連なる松江市雑賀(さいか)町は、車1台がやっと通れる狭い東西約600メートルです。
国道9号線の南側約100メートルに平行してはしっています。
何時でも出陣の準備は怠りませんでした。天下も平定され、江戸時代の平和な世の中が続く事になりますが戦国時代の精鋭たちは、
その時代にも、 特殊技能を秘めた雑賀の下級武士団は算術などの素養を伝え、貧しいながら向学心の強い地域だったらしいのです。
明治維新前後までに、二十を超す寺子屋や私塾が誕生しました。
明治6(1873)年にはこれらを洞光寺へまとめ、松江最初の小学校(現雑賀小学校)が開校しました。
それ以降も勉学の機運は衰えず、総理大臣を2度務めた若槻礼次郎、近代スポーツの父・岸清一、教育者であり法律家の梅健次郎をはじめ郷土の偉人を多数輩出しています。
今も雑賀小学校には「雑賀魂」という言葉があり、学問に打ち込んで身を立て、何らかの道で日本一になり、世のためになれという意味だそうです。
今、NHK大河ドラマでは、長州藩の吉田松陰の妹さんで盛り上がっています。
松江藩も学問においては、明治維新の時代にもそんなには引けを取ってはいなかったのです。
それから、数十年後には消費税を導入した竹下 登総理大臣も島根県が生んだ偉人なのです。