美保神社の周辺の観光スポット
ハウル@矢野です。
クリスマスも終わり、いよいよ年越しに向けて気が焦るところとなりました。
今回は、美保神社の周辺の観光スポットの一部紹介をします。
美保関は美保神社の門前町として繁盛した町ですが、美保神社から仏谷寺に至る青石畳は江戸時代の参拝道の遺構です。
美保神社の鳥居をくぐり右に曲がると石畳の通りがあり、150mほど行って左に曲
がり100m行くと仏谷寺に着きます。
神社前の通りには越前石が使われ、本通りには周辺の海岸から運ばれた緑色凝灰岩が敷かれていますが、形は正方形に近いものから長方形などさまざまです。
この青石畳通りが以前の本通りで、参拝客相手の旅館やみやげ物屋で賑わった通りです。
その当時の面影を残す古い町並みと石畳の道が落ち着いた雰囲気をかもし出していて、何ともノスタルジックな気分にさせられます。
この周辺の散策は、食いしん坊の人には、耐えられないいい匂いが漂います。
美保の関名物の食べ物と言えば何といってもイカ焼き、イカの一夜干しです。
他にもサザエのつぼ焼き、ゆでたての松葉ガニ・・・など海の恵みの美保関名物は、数えあげたらきりがありません。
この通りの屋台で食べるもよし、お土産に買うもよし、宿でゆっくり味わうもよしです。
「烏賊の味忘れで帰る美保の関」と高浜虚子も俳句に詠んだその味は、一度食べたら忘れられないおいしさです。
また、しょうゆアイスなど新名物もぞくぞくです。
ここで仏谷寺 (ぶっこくじ)について説明しておきます。
門を入って右手の大日堂(だいにちどう)には、5体の仏像(重文)が安置されています。
薬師如来坐像を真中に、聖観音立像3体と、菩薩形立像1体が並んでいます。
いずれも平安初期の一木(いちぼく)彫で、出雲様式といわれる素朴でダイナミックな地方色豊かな仏像です。
これだけの重文仏像群が、地方の小寺院に現存するのは注目すべきですが、このことは、仏谷寺の前身が相当大規模な寺院であったことを物語っているそうです。
そういうことで、 三明院は隠岐へ流された2人の天皇の風待ちの御座所にもなった訳です。
承久3年(1221)7月27日、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は、出雲大浜浦(美保関)に着かれ、しばらく逗留されたが、そのときの宿が三明院だと伝えられています。
それから約100年後、元弘2年(1332)3月、後醍醐天皇もまた倒幕に失敗して隠岐配流となりました。
もう一つ、「関乃五本松節」の由来についてです。
江戸時代、「西回り航路」の発達により山陰第一の要港美保関は北前船をはじめとする大小の船舶が往来し大変にぎわっていました。
長い航海を経て、美保関に入津する船は、海上に島根半島の影が現れると、西側入り江近くの小高い山にそびえ立つ五本の黒松を目当てにしておりました。
江戸時代、松江藩主は、美保神社に月参りかたがた関所及び施設の巡視を行いました。その際、路面が狭いことや眺望が遮られるという理由で、五本の松のうち一本を切らせてしまったのです。
船人達は藩主の横暴さに怒りを感じておりましたが、表だって抗議することもかなわず、ふたたびこのような暴挙がなされぬ事を願うばかりでした。
民謡「関乃五本松節」は船人達のやり場のない気持ちから自然とほとばしり出た唄だといわれています。
横暴な藩主への痛烈な批判とともに、せめて残りの松は夫婦松として末永く栄えるようにと祈りを込めて歌われたものと伝えられています。
毎年10月には、正調関乃五本松節 全国優勝大会が開催され、唄、太鼓、絃、踊りの4部門で日頃の練習の成果が競われます。
また、美保湾に面した旅館に宿泊された人は、朝早く漁港を散策されると朝捕れたばかりの魚類が市場でセリにかけられる場面に出会う事が出来ます。運が良ければ漁師さんにおすそ分けがいただけるかもしれませんよ。
他にも観光スポットは多くありますが、今回は、このあたりで失礼します。
プロジェクトゆうあいのスタッフが取材にこの地を訪れた時の写真を2枚添付します。
1枚目は、青石畳通りの写真です。
2枚目は、スタッフがおいしそうにイカを食べているところです。