松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

「ヘルスツーリズム」で健康的に!

2023年05月17日 09:57   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。
まだ5月だというのに夏のはしりのような気温の松江市です。

今回は、「ヘルスツーリズム」の話題です。
ヘルスツーリズムとは、旅行という非日常的な楽しみの中で、旅行中のトラブルを回避したり、
健康回復や健康増進を図るものをさします。
そして旅をきっかけとして、旅行後も健康的な行動を持続することにより、
豊かな日常生活を過ごせるようになることをいいます。

当NPO法人では、ヘルスツーリズムを「健康・未病・病気の方、また老人・成人から子供まですべての人々に対し、
科学的根拠に基づく健康増進(EBH:Evidence Based Health)を理念に、
旅をきっかけに健康増進・維持・回復・疾病予防に寄与する」ものと定義しています。

治療旅行の例は、以下です。
糖尿病食改善旅行
アトピー性皮膚炎緩和旅行
介護・重度バリアフリー
人工透析旅行
ソラリア療法旅行(多角的がん療法)
ここまでは下記URLからの引用です。
ヘルスツーリズムとは|日本ヘルスツーリズム振興機構
https://www.npo-healthtourism.or.jp/about/

さて、松江市にも、健康増進と観光を組み合わせた「ヘルスツーリズム」の普及に奮闘する女性がいます。
松江市地域おこし協力隊員の助成。
昨年、鹿児島県から松江市にIターンし、山陰両県の自然を満喫するトレッキングツアーなどの企画をしています。
細かい心配りが人気を呼び、リピーターを含め多くの参加者が集うそうです。
その女性は、「自然豊かな山陰の強みを生かした企画で、健康寿命を延ばしたい」と意気込んでます。
この間は、松江市東出雲町上意東の京羅木山で開かれたトレッキングツアー。
女性が先頭に立ち、市内外から集まった6~77歳の30人に呼び掛けました。
休憩中はあめを配り、一人一人に話し掛け体調を確認したり、
子どもに配慮したペースを保ち、時には手を引いて歩いたそうです。
また、参加者の半数がリピーターだそうです。
松江市地域おこし協力隊員として17年に赴任し、市が掲げる健康寿命の延伸に着目。
「楽しく運動し、気付いたら健康になっているのが理想的」と
島根の資源を生かしたヘルスツーリズムにたどり着いたとの事。
今年5月に同市美保関町で開いたツツジを眺めるウオーキングを皮切りに、これまで5回企画。
登山後に温泉と地元野菜を使った料理を味わう企画や、地区の神社を巡って歴史を学ぶウオーキングを開いたそうです。
今後は月1~2度開催する予定だそうです。
「また行きたいと思ってもらえる企画で健康増進に努めるとともに、
将来は県外訪問者を増やして移住促進につなげたい」。
今後は登山者向けに栄養のバランスを考えた弁当の開発や、登山マップ作成を思い描いているそうです。
このくらいなら、少し無理をすれば何とかなりそうですね。
私も美保の席の五本松公園や京羅木山には盲導犬と登った事があります。
視覚障がいのある仲間に声をかけて、参加して見ようと思います。



5月16日は「旅の日」ってご存知でしたか?

2023年05月08日 10:26   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。
立夏を迎えて、一念で一番、いい季節ではないでしょうか?
どこか外へお出かけしたくなりますよね!
5月16日は、「旅の日」です。
「春の風に誘われて・・・」俳諧師の松尾芭蕉が「奥の細道」の紀行文を書く為に、旅に出発した人されています。
少し、調べてみました。
1689年(元禄2年)5月16日(旧暦3月27日)、俳人・松尾芭蕉が江戸を立ち、
『おくのほそ道』(奥の細道)の旅へ旅立った日です。 
隅田川から日光街道を北へ進み、下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、
全行程約600里(約2400km)に及ぶ徒歩の旅であった。
芭蕉は体が弱かったため困難も多かったが、2年後の1691年(元禄4年)に江戸に帰った。 
『奥の細道』とも表記されるが、1702年(元禄15年)に刊行された原題名の『おくのほそ道』が正式とされ、
中学校国語の検定済み教科書ではすべて『おくのほそ道』と表記されている。

松尾芭蕉は、皆様もよくご存知の通り、江戸時代前半の俳諧師です。
俳諧という俳句の元になったものを発展させて、芸術として俳句を完成しました。
全国をいろいろ旅して詠んだ歌は、いろいろなところの石碑などにも刻まれています。
俳句は、俳諧という江戸時代に栄えていたものが発展したものです。
俳句という言葉は、実際には正岡子規によって明治時代になってから広まりました。
芭蕉の辿った道を歩いて石碑を巡る旅をする方も多いと聴きます。
自然の風や水音や虫の音や小鳥の囀りなど感じながらの旅は、最高だと思います。
このような旅であれば、世話しない現代社会を忘れてゆったりとして寿命が伸びそうですよ!!



オシドリ夫婦はは夫婦円満の鏡なのでしょうか?

2023年05月01日 10:53   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。
鳥取市でバードリスニングを体験したからという訳ではないですが、野鳥の話題です。

仲むつまじい夫婦を「おしどり夫婦」などと呼ぶことがあります。
ちなみに鳥取県の県鳥は、オシドリですよ!
そのイメージに引っ張られて、オシドリは一夫一婦制で一度つがいになったなら、
生涯を添い遂げる愛情深い鳥だとばかり・・・、と思っていたのはこの間まででした。
どうしてオシドリは一生添い遂げる事になったのでしょうね。
あなたは実際にご覧になった事がありますか?
ところが、このペアは1年だけの期間限定なのです。
メスが卵を産んで温め始めると、オスはさっさとどこかへ行ってしまのです。
結局、生涯を添い遂げるどころか、オスは子育てにすら参加しないというダメっぷり
(いや、生物学的には意味のある行動なのだろうけど)。

オシドリってどんな鳥?
カモの仲間の野鳥で、東北以北で夏季、それ以外の地域では冬季、または周年観察することができます。

夫婦仲の実態は?
古くから絵画に描かれたり、山形、鳥取、長崎の3県で『県の鳥』に指定されているなど、
日本各地で多くの人々に親しまれています。
オシドリは、オスの色のほうが派手で際立っていて、メスはそれに比べて地味な色味なのだそうです。
秋以降のオシドリのオスの羽色は、それはそれはカラフルで、目が覚めるような色合いなのです。
大きさは、体長約40cm 翼を広げると約70cmと思ったよりも大きいんです。
姿は、オスは、夏の間は「エクリプス(夏毛)」と呼ばれる地味な姿をしていますが、
秋になると、赤・オレンジ・紫など色鮮やかな羽毛で美しく身を飾ります。
内側には、銀杏の葉の形をしたイチョウ羽があります。
メスは、全体的に暗い灰色で、目の周囲から後方にかけて白いアイラインが特徴です。

4月から7月で一夫一妻。
木の洞に巣を作り、一度に7~12個の卵を産みます。ヒナの世話はメス。
オスはこの頃からオスだけで集まって遊んでいます。
オスとメスがいかにも仲がいいと感じるかもしれませんが、実は目をつけたメスに
他のオスが近づかないように見張っているだけなのだそうです。
また、昔から絵画にもよく描かれていましたので、日本人にはオシドリは仲が言いとインプットされたのでしょうね。
この事実を知ったあなたは、今日からは「オシドリ夫婦」と呼ばれて喜ぶのは、
ちょっと考えたほうがいいのかもしれないですね。
ちなみに鳥取県の県鳥は、オシドリですよ!



まち歩きバリアフリー情報誌てくてく日和 安来市を散歩しました

2023年04月24日 09:54   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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まち歩きバリアフリー情報誌てくてく日和-山陰-42号(2023年春)が完成しました。


今回の特集は「春のおとずれ 安来さんぽ」というテーマで、春らしさを感じる安来のまちを紹介しました。
伯太のチューリップや、美しい日本庭園が魅力の足立美術館、みんな大好き安来いちごの味わい方など、情報満載です!

誌面は中国地方の道の駅、山陰の観光案内所を中心に無料配布しております。
見かけたらぜひお手に取ってご覧ください。
ダウンロード版も準備中です。アップまでしばらくお待ちください。
バックナンバーは下のホームページよりダウンロードしてください。
http://project-ui.com/social-business/barrier-free/hirori/



「明治維新の危機にも生き残った松江城!」

2023年04月19日 15:05   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハダル@矢野です。

さて、今回は、「明治維新の危機にも生き残った松江城!」という話題です。
日本全国には、約1700あったと言われる城郭も江戸時代に入ると
幕府の一国一城の命令が下され100以下になりました。
明治維新とともに新政府からの廃城令により20城となり、太平洋戦争により8城が消失し、
現存する店主は、今では12城が残るだけとなりました。
戦国時代から思いを馳せるとお城の数は1000分の1となった訳です。
当地の松江城は、江戸時代から戦災にも遭遇することもなく運が良かったと言わざるを得ません。
松江城存続の一番の危機は、明治新政府発令の「廃城令」です。
この時の逸話が残っていますので引用します。
まずは、当時の背景からです。
江戸幕府は、同ペリー率いる米国艦隊の浦賀来航をきっかけに開国をしました。
尊皇攘夷(じょうい)運動から倒幕運動へと転換していく中、親藩だったにもかかわらず、
松江藩は、大きな戦いに巻き込まれず、1867年の大政奉還を迎えました。
翌68年、松江藩に新政府への恭順の意を示させようと訪れた鎮撫使(ちんぶし)一行が藩の対応に不満を持ち、
家老の切腹、嗣子の人質などを要求する「山陰道鎮撫使事件」が起きました。
鎮撫使を務めたのは後に首相となる西園寺公望です。
藩は「勤王奉仕」の誓書を提出し、新政府に恭順の意を示しました。
この時に活躍したのが、以前に掲載しました「松江藩のジャンヌ ダルク」こと「玄丹おかよ」という女性がいました。
西園寺ら一行は、松江藩に難題を幾つも振りかけ家老切腹の危機を女の度胸と毅然とした態度で掬ったと言われています。
68年の版籍奉還後、最後の藩主である松平定安は知藩事に任命され、松江城は陸軍省の所管となりました。
71年、廃藩置県に伴い、定安は知藩事の職を解かれ、松江藩は松江県になり、松平家の統治は終わりを告げました。
日本の城郭は、明治初期、新政府の廃城令に伴い、各地で取り壊されました。
松江城天守も民間に払い下げられ解体寸前となりました。
ここで登場したのは、出雲市斐川町の豪農・勝部本右衛門栄忠(もとえもんしげただ)、景浜(かげはま)親子が
私財を投じて買い戻し、保存が決まりました。
松江城は1871年に廃城が決定。
天守は陸軍省広島鎮台の所管となり、民間に払い下げられました。
75年には入札が始まり、180円で落札が決まりました。
180円はコメの価格を基準に換算すると現在の約120万円に相当するそうです。
勝部家は松江藩政下で銅山の採掘に携わり、屈指の財力を持つ豪農として知られていました。
銅山の経営指導に当たっていた松江藩の「銅山方」だった元藩士高城権八から、
天守解体の旨を聞いた勝部親子は買い取りを決意。
落札価格と同額を広島鎮台に上納しました。
その後、勝部親子によって買い取られた天守は、修復など手を付けられることがなかったとのことです。
こんな大きな家など個人的には必要ありません。
松江城の取り壊しを取りあえず延ばしたのにすぎたかもしれませんが、
その後松江市民から声が上がり松江市の管理となり現在に至ります。
松江城の落札価格が現在の約120万円に相当するというのも少し驚きですが、
買い取り後の維持管理費を考えれば厄介者ですね。
国宝となったのも、この勝部家親子の寄付?があったからこその栄冠となった訳ですね!