松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

松江市東出雲町の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は神話のルーツかも?!

2015年12月18日 14:48   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
ここにきてやっと冬将軍がお目に絵しましたが、松江では山に薄らと雪が積もっただけです。まだまだ冬本番ではないようです。
今回も巨岩神話なのですが、神話の中の神話また、「島根」の名前のルーツではないかと言われています。少し不気味な神話です。
「黄泉」とはむろん死者の世界のことです。そこは、「黄泉比良坂」と言います。聖書の中では、「黄泉」は死者が裁きを待つまでの中間の場所とされています。『古事記』の中の「黄泉國」は、あの世との境界線とされます。言わば死者の世界の入口なのです。
これは、見てはいけないものを見てしまった夫の神話伝説です。
それでは現地に行って見ることにします。
松江市揖屋町の住宅地に小さな標識「黄泉比良坂徒歩3分」と看板があります。標識に従って進むと、緩やかな上り坂となります。そこは、人が通った気配のない薄暗い山道です。
しばらく歩くと、今度は下り坂になり、その地が現れます。
そこには石柱が2本、まるで鳥居のように建って出迎えてくれました。2本の石柱には細いしめ縄が結ばれ、結界を示しているようです。ここを潜ると死の世界だと言わんばかりです。
石柱の先には、石組みの台座の上に石碑が鎮座しています。長い歳月、風雨にさらされた姿です。
気味が悪い雰囲気がプンプンしています。さらに、裏山の茂みの陰に2つの大きな石が置かれています。ここで写真を撮ると、心霊写真になる場合が多いそうです。
ここで、『古事記』や『日本書紀』に残された黄泉比良坂伝説を記しておきます。
登場人物は男神イザナギと女神イザナミです。
『イザナギは亡くなった最愛の妻イザナミに逢いたくて跡を追い、死者の国である黄泉に行った。イザナギが妻を呼ぶと、「わたしも帰りたいと思います。黄泉の国の神に相談しますので、その間は決してわたしの姿を見ないでください」と言って、消えてしまった。
イザナギは待てども返事がないので、しびれを切らして辺りを見てしまった。そこには体にウジ虫がわき、ふた目と見られぬ妻の姿があった。
「あなたは、わたしに恥をかかせましたね」と怒ったイザナミ。
恐ろしくなって逃げるイザナギをイザナミが追いかけてきた。そこで、イザナギは黄泉比良坂にあった大きな岩で道をふさいでしまった。』


2つの大きな石の謎はどうなんでしょう。
神話からすると、黄泉比良坂にあった2つの大きな石が死者の国を塞いだ岩なのでしょうか。あの下に、死者の世界に通じる穴があるのでしょうか。岩を動かしてみた人は未だいないようですので、不明?です。
じつは、この神話には続きがあります。黄泉の国から帰ったイザナギは、けがれを落とすためにある泉でみそぎをします。その時、その左目から生まれた神が天照大神(あまてらすおおみのかみ)、右目から生まれたのが月読命(つくよみのみこと)、鼻から生まれたのが須佐之男命(すさのおのみこと)。神話の世界で有名な「三貴子」です。後に承知の通り、須佐之男命は出雲神話で大活躍します。
要するに、黄泉比良坂は神話のルーツとも言えるという訳です。それゆえ、黄泉の国を“根の国”とする説もあり、これが「島根」の地名の由来になったとも言われています。
神話は奥が深く読み込めば読み込むほどに引き込まれますね。
興味のある方は、神話の世界からある心霊スポットに一度おいでてみたら何かぞくぞくする気分になるかもしれませんよ。


写真を3枚添付します。
1枚目は、「黄泉比良坂」の石碑の写真です。
2枚目は、死者の世界の入口を塞いでいる岩の写真です。
3枚目は、2本の石柱にしめ縄が結ばれている写真です。


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赤穂浪士討ち入りの日の天気は吹雪?

2015年12月14日 14:56   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
ここ一週間は雨や雨か雪のマークが続いているのにも関わらず観光客は松江城周辺には多くみかけられます。
今日は今から313年前の元禄15年(1702年)12月14日は、「忠臣蔵」でお馴染みの「赤穂浪士の討ち入り」が行われた日です。
藩主に忠義の家臣たち47人が仇を討つという物語は、半眼びいきの日本人にとっては人気が高く、有名な歴史的事件の1つですね。
物語の内容については皆様はよ~くご存じ?と思いますのでここでは省略させていただきます。
ドラマや映画では、雪が降り積もる中、吉良邸に乗り込む姿が描かれることが多いですが、実際の天気はどうだったのでしょうか?などと気になりましたので少し調べて見る事にしました。
実は、討ち入りの日の江戸は、晴れて、月が出ていたそうです。地面には、前日までに降った雪が積もっていたといいます。このため、雪に反射する月明かりで提灯がなくても歩くことができ、足音や武具の音が雪で吸収されて気づかれにくく、討ち入りに適した日だったと考えられます。
その上、最も大事な事は仇討の相手の吉良上野介が家にいることです。
地面に雪がある場合とない場合とでは一体どのくらい違うのかを調べた大学教授がいます。そのデータによると、内容はこうです。
いざ、実験開始です。すると歩数にしてわずか4歩で気付かれてしまい、町人役との距離を測ってみると8m30cm。騒音計で気付かれた場所を測ると57dbで、賑やかなレストランとほぼ同じうるささでした。続いて、人口スキー場で地面に雪がある場合で実験開始。すると、47人は気付かれないままどんどん進み、列の先頭がすぐ背後の幕に到着したところで町人役はようやく気付きました。騒音計はここまで近付いてやっと48dbで、図書館の中とほぼ同じ静けさでした。雪がある場合と無い場合ではかなりの差がありました。実は、雪が無いと地面に色々な音が反射して騒音が発生します。
一方積もった雪は、その60~70%が空気層です。雪がある場合とない場合の足音の差この空気層が音を吸収するので足音や衣擦れの音などが周囲に響かなくなるのです。これを雪の「静音効果」といい、雪があると静かに歩くことができるのです。事実、12月14日は47人の浪士たちは誰にも気付かれることなく吉良邸に到着することができたのです。
他にも、午前4時頃から約3時間で勝負がつきました。
真冬で夜明けが遅いので人目につかず行動でき、この日は吉良上野介が自宅で茶会を開くため必ず家にいることも確認されていて、まさに絶好の討ち入り日だったのです。  
ところで、余談ですが47人中10人が50歳以上と年配者の多い赤穂浪士が、剣客が揃う吉良家の警備隊になぜ太刀打ちできたのでしょう?調べてみると、赤穂浪士達は「一向二裏(いっこうにうら)」という戦法で戦ったというのです。一向二裏とは、三人一組で、一人が正面から戦っている隙に、残りの二人が背後に回り込んで攻撃するという戦法です。
しかも、刀にしても弓矢にしても約半分の長さしかなかったと言われています。47人中けがをした浪士は2人で、死亡したのはいませんでした。
戦法にしても熟慮に熟慮を重ねた賜物であろうと考えられます。後は天候という自然を見方にする機会をずっと待っていたからですね。
なぜ、300年前の天気が判ったのかと言うと浪士の中に足軽に大石倉之助が討ち入りを後世に知らせるべく一人が詳しく戦機を描きとめていたからなのです。まず、確かだと思います。
吉良家には100人もの剣客を揃えていたのにも関わらず敗北したのです。平和の時代、元禄文化が開花しているこの時代では「武士の鏡」として英雄となったのは当然ですね。



須我神社は日本発のスイートホームなの?

2015年12月08日 15:23   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
第3回の巨石神話をお届けします。
須我神社は、古代のパワーが満ちる!「日本初之宮」でした。
須我神社は、スサノオノミコトとクシナダヒメが造ったとされる「日本初之宮」とされています。
『古事記』によれば、スサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治されたあと、クシナダヒメを伴って、八雲山の麓に至ったとき、
「吾此地に来て、我が御心すがすがし」といわれたことから、この地域を須賀(スガ)というようになりました。
またこの宮を包むようにして美しい雲が立ち上がるのを見て、スサノオノミコトが『八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を』
と歌を詠んだことから、須賀の地は和歌発祥の地ともいわれています。
そしてこの和歌にある「出雲」が出雲国の名前の起源となったのです。
児授かり、出産、夫婦円満の守護神。
【主祭神】
須佐之男命(すさのおのみこと)
奇稲田比売命(くしいなたひめのみこと)
御子神の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)
また、かつて諏訪とも縁があって、その氏神の武御名方命(たけみなかたのみこと)も合祀されているようです。
【二宮詣で】
須我神社では古来より本社と奥宮への二宮詣での習わしがあり、神社社務所で祈願札をお受けになって、奥宮の納札箱へ納めると、祈願札は一日、十五日に御祈願されるそうです。
これをしないとパワーも半減するとか、、、。お忘れなくお参り下さい。但し、車イスの方はとっても無理そうですので、一緒にお参りした方にお願いしてみて下さい。
■須我神社の奥の宮が、『夫婦岩』です。この巨石については調べましたところ特には神話はなさそうです。


お問い合わせは、下記まで。
住所 島根県雲南市大東町須賀260
須我神社 TEL:0854-43-2906 FAX:0854-43-5162 社務所(8:30~17:00)
アクセスは、
車:JR山陰本線「松江駅」から約40分
松江自動車道「三刀屋木次IC」から約20分
路線バス:JR松江駅から一畑バス「大東行」/JR大東駅から「松江行」に乗車/「須賀」バス停下車 徒歩3分
写真を3枚添付します。
1枚目は本殿。2枚目は本殿裏の夫婦岩。3枚目は二宮への参道です。


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松江市宍道町には、オオクニヌシノミコト伝説の巨石神話がある?!

2015年12月08日 11:34   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
「今冬は暖冬!」とどこかの気象予報士が予言?をしていましたが、今現在までは大当たりのようですね
。島根県内でも2か所のスキー場がこの間の日曜日にオープンしたとの報道もありましたがどうなる事でしょうね。
前回、出雲の巨石神話の話題でしたので、今回も続編をお届けします。
松江市宍道町には、町名の由来になったといわれる「猪石(ししいし)の神話」があります。その神話の舞台装置となる「猪石」の候補となっているのが、宍道町白石にある「女夫岩(めおといわ)」と呼ばれる巨石で、もうひとつの候補が、同じく白石にある「石宮(いしみや)神社」の神体石と鳥居の脇に鎮座する2つの巨石ということだそうです。


今回は後者の石宮神社(いしみやじんじゃ)を紹介します。
伝承によると、猪狩りをしていたオオクニヌシノミコトに追い込まれた2匹の猪(しし)が南の山に石像となって残ったということから、猪(しし)の道を意味する「宍道(ししぢ)」と呼ぶようになったといわれています。狩りに使った犬も「犬石」と化し、拝殿奥の石柵に囲まれ、ご神体として鎮座している。
本来、この「宍」は「肉」という語意なのだそうですが、どうして「猪」が「宍」になったのかは、明らかではないそうです。それに、国王が直々にイノシシ狩りをしていたのかとか、神社に逃げ込んで石になって捕獲されるのを逃れたとも思わせる伝説ですね。
「宍道」という地名の五元となったと言われると松江市民としてはシンボルである「宍道湖」の名とも関連があり大いに気になりましたが、そんなでもなさそうでしたので、少し残念な気がします。



最後に石宮神社(いしみやじんじゃ)の駅・バス停からのアクセスを紹介しておきます。
JR宍道駅から徒歩30分、車3分。


写真を3枚添付します。苔むしたほうがイノシシです。柵で囲まれた方が犬です。


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出雲では巨石巡りに熱い視線!

2015年12月03日 14:35   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。12月に入り松江城の堀川遊覧船を眺めていると船頭さんだけ寒そうです。お客さんはコタツに足を突っ込んで乗船を楽しんでいるのですから・・・。
そんな中、神社のパワースポット巡りも良いのですが、シルバーパワーのおじさんやおばさんの間に博物館や住民団体、観光ツアーを企画する動きがあります。という話題です。
神話や古い伝承が残る巨石信仰地を、観光振興の素材として活用する動きが出つつあります。
歴史愛好者の団体や住民グループが、巨石を巡るツアーを企画しました。
パワースポットとして神社や遺跡が注目を浴びる中、古来から残る巨大な岩石にも光が当
たり、毎回定員に達するツアーが出るなど、人気を呼んでいるらしいのです。
島根県では、出雲市斐川町神庭の荒神谷博物館が2012年、県内の巨石信仰遺跡の調査を始めたのを機に注目度がアップし始めたのです。同館は13年から、県東部を中心に巨石巡
りツアーを催し、これまでの7回(定員20~40人)すべて満員なのだそうです。
県内外の高齢者や女性が参加し、募集開始後1週間ほどで定員に達する盛況ぶりというのです。
人気の理由はというと、出雲国風土記の記述やスサノオノミコトの物語とつながるなど、それぞれの巨石に神話の国ならではのストーリーがあって面白い。出雲人の厚い信仰心がうかがえるからではないかといいます。
例えば、出雲市坂浦町の佐香コミュニティセンターは、出雲の地誌「雲陽誌」に記された、山中に三つの巨岩をまつる地元の立石神社の案内パンフレットを製作したそうです。
14年5月のツアーでは、定員25人に対して80人の応募があり、急きょ定員を50人に倍増したそうです。地元の人もほとんど知らなかった場所に、地区
外からも多くの人が訪れ、町の活力になるのではないかと地元民は期待を寄せているらしいのです。
ここで、立石(たていわ)神社の逸話を引用しておきます。
立石(たていわ)神社は出雲市坂浦町にある巨石の磐座だけの神社です。
ずっと昔、巨石のあるここは誰言うともなく「たていわさん」と呼ばれていました。聖なる場所として山人に崇められ、女たちが「たていわさん」の祭祀を行っていました。たていわさんの祭祀場を守るために女だけの部落がありました。
男子禁制の部落なので、女たちは水をくみ、田を耕し、畑を作り、狩りをし、山の果実をとり、海沿いの村からは、塩や干し魚を手に入れました。家畜の世話もして女たちはよく働きました。
小さな村でありましたが長を頂点にその下に巫女がいてピラミッド型の構成をとり、中には階級があり、それに従って、子供たちまで含めて皆よく働きました。女たちは子供の教育をし、男の子が産まれ三歳になると下の村の父親の元に返しました。
男子禁制の部落ではありましたが、一年に一度、夏の二十八日間にわたり、下の男部落から男を呼び、若い女も出産の経験がある女も、男を自分の部屋に招き入れることを許されました。
それは一年に一度の愛の交歓でした。その間、長は立石に籠り良い子供が授かり、部落が栄えるようにと神に祈り続けました。やがてたくさんの子供達が生まれることでしょう。
十六歳になったピメは初めての事でした。男村のツチも初めての事でした。二人は熱く愛をかわし、もう二度と分かれることがないように一緒に住みたいと長にお願いしました。
しかしピメは次の巫女になるべく子でしたので許されることはありませんでした。それでも愛し合う二人は、二十八日間の逢瀬が終わっても夜毎に会い続けました。二人の行動は同じように思っていた女や男の意識を変えて長を動かし、とうとう二つの部落は一つの大きな村になりました。
男も女も助け合って家庭を持ちました。しかし相変わらず立石さんを守るのは女達です。神に祈りを捧げ守りました。しかしその横顔は幸せに見ていました。それはもう男の子供や夫様と別れることがなかったからです。
朝日新聞の記事より
出雲地方にはこのような巨石神話が約30か所もあるそうです。またの機会に他の伝説もお送りしたいと思います。