松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

明治維新の危機にも生き残った松江城!

2015年06月23日 11:34   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。梅雨、真っただ中にもかかわらずゲリラ豪雨もなくこのまま適度のお湿りで過ぎてもらいたいものです。
さて、今回は、「明治維新の危機にも生き残った松江城!」という話題です。
日本全国には、約1700あったと言われる城郭も江戸時代に入ると幕府の一国一城の命令が下され100以下になりました。明治維新とともに新政府からの廃城令により20城となり、太平洋戦争により8城が消失し、現存する店主は、今では12城が残るだけとなりました。
戦国時代から思いを馳せるとお城の数は1000分の1となった訳です。当地の松江城は、江戸時代から戦災にも遭遇することもなく運が良かったと言わざるを得ません。
松江城存続の一番の危機は、明治新政府発令の「廃城令」です。
この時の逸話が残っていますので引用します。まずは、当時の背景からです。


江戸幕府は、同ペリー率いる米国艦隊の浦賀来航をきっかけに開国をしました。尊皇攘夷(じょうい)運動から倒幕運動へと転換していく中、親藩だったにもかかわらず、松江藩は、大きな戦いに巻き込まれず、1867年の大政奉還を迎えました。
翌68年、松江藩に新政府への恭順の意を示させようと訪れた鎮撫使(ちんぶし)一行が藩の対応に不満を持ち、家老の切腹、嗣子の人質などを要求する「山陰道鎮撫使事件」が起きました。鎮撫使を務めたのは後に首相となる西園寺公望です。藩は「勤王奉仕」の誓書を提出し、新政府に恭順の意を示しました。
この時に活躍したのが、以前に掲載しました「松江藩のジャンヌ ダルク」こと「玄丹おかよ」という女性がいました。西園寺ら一行は、松江藩に難題を幾つも振りかけ家老切腹の危機を女の度胸と毅然とした態度で掬ったと言われています。
68年の版籍奉還後、最後の藩主である松平定安は知藩事に任命され、松江城は陸軍省の所管となりました。71年、廃藩置県に伴い、定安は知藩事の職を解かれ、松江藩は松江県になり、松平家の統治は終わりを告げました。
日本の城郭は、明治初期、新政府の廃城令に伴い、各地で取り壊されました。
松江城天守も民間に払い下げられ解体寸前となりました。ここで登場したのは、出雲市斐川町の豪農・勝部本右衛門栄忠(もとえもんしげただ)、景浜(かげはま)親子が私財を投じて買い戻し、保存が決まりました。


松江城は1871年に廃城が決定。天守は陸軍省広島鎮台の所管となり、民間に払い下げられました。75年には入札が始まり、180円で落札が決まりました。180円はコメの価格を基準に換算すると現在の約120万円に相当するそうです。
勝部家は松江藩政下で銅山の採掘に携わり、屈指の財力を持つ豪農として知られていました。銅山の経営指導に当たっていた松江藩の「銅山方」だった元藩士高城権八から、天守解体の旨を聞いた勝部親子は買い取りを決意。落札価格と同額を広島鎮台に上納しました。
その後、勝部親子によって買い取られた天守は、修復など手を付けられることがなかったとのことです。
こんな大きな家など個人的には必要ありません。松江城の取り壊しを取りあえず延ばしたのにすぎたかもしれませんが、その後松江市民から声が上がり松江市の管理となり現在に至ります。
松江城の落札価格が現在の約120万円に相当するというのも少し驚きですが、買い取り後の維持管理費を考えれば厄介者ですね。
もうすぐ正式に国宝となることもこの勝部家親子の寄付?があったからこその栄冠となった訳ですね。



バリアフリー観光を推進する全国フォーラム沖縄大会へ参加しました

2015年06月22日 14:02   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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松江/山陰バリアフリーツアーセンターの川瀬です。
6月19日(金)に沖縄で開催されたバリアフリー観光の全国フォーラムへ参加しました。

バリアフリー観光を推進する全国フォーラム沖縄大会

梅雨明けの沖縄は想像以上に暑く、またフォーラムも熱く開催されました。
各地の先進事例の紹介や、山崎 泰広 による「オリンピック・パラリンピックを目指したバリアフリーインバウンドのあり方」など、とても学びの多いフォーラムとなりました。

次回開催は福島です。


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松江城を築城した堀尾氏の菩提所円成寺(えんじょうじ)

2015年06月09日 14:59   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
6月3日に梅雨入り後は、スッキリしない天気が続いていますが、松江城の国宝指定から相変わらず観光客の多いこちら松江市です。
堀川遊覧船などは、満員状態で、船頭さんを追加募集しているくらいです。
前述では、松江藩藩主の松平家の菩提寺であります月照寺をご紹介しましたが、初代松江城築城の堀尾家の菩提寺については、松江市民でも、知る人ぞ知るというイメージがあります。
遅ればせながら今回は、堀尾氏の菩提寺でありますところの円成寺の紹介です。
松江に堀尾吉晴の入城を再現した武者行列のイベントが行われますが、このお寺の墓所ににうちそろってお参りをします。
さて、このお寺は、旧松江市街南端の松江市栄町にあります。松江城から南に宍道湖大橋を渡り国道9号線を跨いだところで、旧国道9号線(昔の街道)沿いにあります。
今現在では、新国道9号線や卸団地が宍道湖を埋め立てて陸地となっていますが、当時は、この円成寺のある小高い山は、岬のように飛び出した地形となっていました。今でいう「夕日スポット」であったのではないかと思わせます。
旧国道からは、正面数十段の石段を登ったところに本堂があり、来待石で造った大石灯篭が迎えてくれます。
本堂正面には吉晴(左)と忠氏の肖像が描かれた二幅の掛け軸があり、奥の廟(びょう)所には忠晴夫妻の木像と堀尾氏三代の位牌(いはい)が安置されています。 
本堂に入って見上げると、梁(はり)の上に飾りがあり、いずれも家紋で、図柄は5種類あります。「家紋で堀尾家の歴史の一端を目で見ることができる。貴重な財産」だということです。ルーツは天皇家ともかかわりがあった可能性もあるといいます。


ここで、堀尾家の家紋で分かる3代の歴史を引用します。
月山富田城(現安来市広瀬町)に入城した吉晴は1611(慶長16)年、松江への移城にあたり富田にあった菩提寺を洗合(現松江市外中原町)に移し、新たに瑞応寺(現天倫寺)を建立して堀尾家の菩提寺にした。
その後、3代・忠晴が亡くなり堀尾家は断絶。京極忠高が藩主になり、1635(寛永12)年、瑞応寺は現在の場所に移るとともに、忠晴の法号にちなんで「鏡湖山円成寺」と改める。
瑞応寺、円成寺ともに開山したのは浜松から吉晴とともに移り、「松江」の命名者ともいわれている春龍(しゅんりゅう)和尚で、円成寺は春龍和尚が別荘として建てた「臨江庵」跡。庭園にある「来待石六地蔵灯籠」は2メートル近くもある立派なもの。400年の風雪に耐え、今でも重厚な姿は往時の面影を残している。
境内の墓地で探し求めた忠晴の墓は、奥の石段を上った先にある。さらに石段を上った先にある祠(ほこら)は、吉晴と親交が厚かった加藤清正の寄進という。古くから火除稲荷(ひよけいなり)として知られ、今でも多くの住民が祈願に訪れる。さらに石段を上ると宍道湖が一望できる眺望が自慢の山頂に出る。
ここからは、五種類の家紋の紹介です。
五七(ごしち)の桐(きり)
3枚の葉の上に3本の枝。中央には7輪、左右には5輪の花がある。一般には「五三の桐」が多い。天皇家に縁がある紋だが、堀尾家とのかかわりは不明という。一説には豊臣秀吉が授かったものともいわれている
抱茗荷(だきみょうが)
堀尾家の先祖・高階家から受け継がれ、堀尾家の中でも当初使用されたといわれる。関ケ原の戦い当時も抱茗荷の紋が使われていたようだ
法馬(ほうま)
丹波・但馬などで多くの功績をあげた堀尾氏が秀吉から賜ったといわれ、戦場での旗印だった。法馬は両替てんびんの重りに使った分銅(ふんどう)のことで一般的には分銅紋と呼ばれる
六目結(むつめゆい)
結いは協力や団結の意味がある。いつから堀尾家の紋になったかは定かではないが、忠晴のころに多く使われたといわれている
寺紋
円成寺の紋は堀尾家の家紋の「分銅」と「六目結」を並べている


松江城の石垣には、石を寄贈した人たちの家紋が数多く刻まれています。その一つ一つを触って見るのも当時の事が偲ばれます。やはり、そ中でも一番多いのは、この分銅紋です。
今度松江城に行かれる機会があれば是非、触ってみて下さい。分銅をイメージして触って見ると三角形の感じに理解出来ます。



あじさいと大亀伝説の月照寺(げっしょうじ)!

2015年06月01日 15:00   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
今日から6月に入りいよいよ夏がもうそこまで来たのかと思いさせる松江市です。
今回は、松江藩(松平家)9代藩主の霊廟がありますところの月照寺(げっしょうじ)の紹介です。
月照寺(げっしょうじ)は、一言で言うと約3万本のアジサイが見守る歴代松江藩主(松平家)の霊廟です。
松江城の西側に位置するこの「月照寺」は、松江城を散策のついでに是非、訪れていただきたい観光スポットです。
約1万㎡の広さを持つ境内には、本堂や宝物殿に続き、初代から第9代藩主までの廟所が厳かに並んでいます。
特に目立つのは、不昧公の廟所と左手には初代・直政公の廟所があります。こちらの二つの廟門は、も桃山文化の作風が巧みに取り入れられた傑作で、共に島根県の有形文化財に指定されているます。
それと、ここからが今回の本番です。第6代藩主・宗衍(むねのぶ)公の廟所へ赴くと、大亀の石像に出会います。大人の背丈ほどもある迫力の大亀は、その背中に高さ約3mの「寿蔵碑」を載せています。宗衍公が50歳になった折、息子である不昧公が父の長寿を願って建立したものですが、実はこの大亀にはウソとも誠ともとれる奇妙な伝説が残っているのです。諸説あるのですが、その中の一つが、松江をこよなく愛した明治の文豪・小泉八雲の随筆『知られざる日本の面影』に登場します。
またまた「へるん」さんの怪談噺です。


【月照寺の大亀伝説】を引用します。有名な話ですので、ご存じかもしれません。
松平家の藩主が亡くなられた後、亀を愛でていた藩主を偲んで大亀の石像を造りました。ところが、その大亀は夜になると動きだし、蓮池の水を飲んだり、城下の町で暴れ人を食らうようになったのです。
困り果てた寺の住職は、深夜、大亀に説法を施しました。すると大亀は、「私にもこの奇行を止めることはできません。あなたにお任せいたします」と、大粒の涙をポロリポロリと流しながら頼んだといいます。そこで、亡くなった藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀の背中に背負わせて、この地にしっかりと封じ込めたのでした。


6代藩主が、親孝行を願って建立した大亀がなぜ、暴れだしたのかは筆者には不明ですが、きっと世の中に親不孝者が増えたから自分でもコントロール出来なくなるほどの不思議なパワーが乗り移ったのかもしれませんね。
必死に首を持ち上げる大亀の表情を見ていると、このような伝説も本当に思えてくるようです。
このお話のほか、暴れる大亀の首を侍が刀で切り落としたという伝説もあるようですよ。その話を裏付けるかのように大亀の首には痛々しい傷跡が残っており、なんだか妙な気にさせられます。しかも、大亀像が鎮座しているのは大杉に囲まれ昼も薄暗い墓所なので、何が起こってもおかしくないような雰囲気なのです。もしかしたら伝説のように大亀が動きだすのではと、ちょっぴり冷や汗が出てきます。しかし、息子が父の長寿を願って建立したという親孝行なエピソードもあり、大亀の頭をなでると長生きできるといわれています。背の高い亀の頭をなでるのは至難の業ですが、頑張って腕をあげて触れてみてください。


この大亀伝説に加え、人魂の目撃談などもあり、ミステリアスなスポットとして知られる月照寺ですが、約3万本のアジサイが咲き誇るお花見スポットという顔も持っています。「山陰のアジサイ寺」として有名で、6月中旬から7月上旬にかけて参道や廟門、苔むした石灯籠を青や紫の花が彩ります。周囲の燃えるような緑も手伝って、境内全体が梅雨のみずみずしい美しさに包まれるので、訪れるにはオススメのシーズンです。
これからの季節、少し涼しく(?)なるかもしれませんよ♪
お問い合わせ先は、以下です。
電話番号 0852-21-6056
所在地 島根県松江市外中原町179
拝観時間 8時30分~17時30分(4~10月)、8時30分~17時(11~3月)
定休日 なし
駐車場 あり
アクセス JR松江駅より松江レイクラインバスで月照寺前バス停すぐ
ホームぺージ http://www.city.matsue.shimane.jp/kankou/(松江市観光ページ)
料金 大人500円 高校生・中学生300円 小学生250円


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普門院(観月庵)は松江城の鬼門封じです!

2015年05月26日 14:58   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
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ハウル@矢野です。
連日雨も降らないで、夏がもうそこまで来ているかのような良いお天気の松江です。
今回、ご紹介の普門院(観月庵)は、松江城の鬼門を守り続けて300余年の寺院です。
寺院内の茶室は不昧公も愛した名月の庵普門院(観月庵)があります。
今から約400年前、松江藩の初代藩主でありますところの堀尾吉晴公が松江城を築城、城下町を造成したときに開創された寺院です。
所在地はというと、遊覧船が松江城の内堀を優雅に行き交う「普門院橋」を渡った先にあります。この「普門院橋」の下を遊覧船で潜る際には、屋根を下げないと橋にぶつかってしまいますので、船頭さんの「頭を下げて下さい。屋根が下がります。」との声が橋の下に響きます。
コチラでの見どころはというと、境内にある「観月庵(かんげつあん)」です。ご察しの通り、お茶室です。
お茶室というと天井が低く部屋での移動は、星座したままなので筆者にはどうも馴染めません。
享和元年(1801年)に建てられた細川三斎流の茶室で、第7代藩主であり、茶人として「不昧流」をたてた松平不昧公もたびたび訪れたといわれています。また、明治時代この松江で暮らしていた小泉八雲も、ここでお茶の手ほどきを受けたことがあるそうですよ。
庵のにじり口を入ると、二畳隅炉と四畳半が組み合わさった本席があります。東側には天井まで開いた大きな窓があり、腰なし障子2枚が建っています。不昧公は、床前に座し、障子を開けたこの窓から東の空に昇る月を眺めるのが好きだったとか。また、庭には池があり、その池に映り込んだ“もう一つの名月”を望むことも。不自然なほど大きな窓だからこそ、月と庭が醸し出す情緒をより深い味わいで感じることができるというわけなのです。音もなく昇る月、月明かりに照らされた庭、耳に優しく響く葉音や虫の声……。この庵では抹茶を頂くことができるので、不昧公も感じたであろうそんな風情と共に味わってみてはいかがでしょうか?
観月庵の名前の通り、付きをめでてのお茶を贅沢な室礼(しつらい)というにはあまりあるところですね。
茶の湯の世界に触れ、気分がよくなったところですが、普門院にはゾッとするような昔話が残っています。それは、小泉八雲の著作『怪談』に登場する「小豆とぎ橋」のお話です。
【小豆とぎ橋のあらすじ】はこうです。
普門院の近くには、その昔「小豆とぎ橋」という橋がありました。この橋には、夜な夜な女の幽霊が現れ、橋の下で小豆を洗っているという言い伝えがあり、この場所で謡曲「杜若(かきつばた)」を謡いながら歩くとよくないことが起きるので、決して謡ってはならないとされていたそうです。
ある日、この世に恐ろしいものなどないという豪胆な侍が、「そんなばかなことがあるか」と「杜若」を大声で謡いながら橋を通ったのです。「ほら、何も起こらないではないか」と笑い飛ばしつつ侍が家の門まで帰り着くと、すらりとした美しい女に出会いました。女は侍に箱を差し出し、「主からの贈り物です」と告げるとパッと消えました。いぶかしく思った侍が箱を開いてみると、中には血だらけになった幼い子どもの生首が! 仰天した侍が家へ入ると、そこには頭をもぎ取られた我が子の体が横たわっていたのでした……。
背筋が凍るような怪談ですよね。今はもう「小豆とぎ橋」はないので幽霊が現れることはないと思いますが、松江城を取り囲むように流れる堀川を遊覧船に乗って巡ると、この普門院橋をくぐった先の川土手で、ふいに女の幽霊のレリーフが現れるとか。本当かどうかは遊覧船に乗ってみてのお楽しみ。


下記に問合せ先などを掲載しておきます。
所在地  島根県松江市北田町27
電話番号  0852-21-1095
営業時間 拝観時間 9時~日没まで(4月~9月:18時頃 10月~3月:17時頃)
定休日 なし。駐車場 あり
アクセス JR松江駅より松江レイクラインで塩見縄手バス停下車、徒歩約10分


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