年のNHK大河「麒麟がくる」をどんな見方をしますか?
松江のハダル@矢野です。昨日松江市で島根県で一人目の新型コロナウイルスの感染者がとうとう出てしまいました。観光的には松江市が所有の松江城やその周辺の施設は閉鎖されてしまいました。観光客もまばらな状態となりました。いつまで、この戦いは続くのでしょうか?
さて、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、明智光秀が主人公です。 光秀は主君、織田信長を討った謀反人、裏切り者というイメージで語られています。ですが、それは必ずしも事実とは言い難いのではないかと思っています。
明智光秀は羽柴秀吉と並んで、信長を支える家臣でした。信長の家臣にはもちろん、柴田勝家や、丹羽長秀といった有力な武将が他にもいました。ですが、信長が本当に信頼した武将は、光秀と秀吉の2人だけではなかったのではないかと思います。
歴史とは、常に勝者が書くものです。後世にはそうした信長が信頼した武将という光秀の姿はあまり伝わらなかったのです。むしろ、秀吉による光秀討伐を正当化するため、光秀は謀反人であり、それを討伐した秀吉の偉大さ、天下人たるエピソードばかりが語り伝えられています。
事実は逆ではないかと感じます。信長は秀吉よりも、光秀を信頼し、期待を寄せていました。
柴田勝家が北陸方面、秀吉が中国方面と、各武将の担当する地域を決めた際、信長のお膝元である「京都」とその周辺、すなわち「丹波」「摂津」「大和」を任せたのは、秀吉でなく、光秀とその与力(よりき)大名でした。つまり、光秀は信長家臣団の中で、序列筆頭だったのです。
信長が光秀をそれほど信頼していたことには、理由があるのです。まず信長は、光秀の軍略を高く買っていました。さらに、「京都奉行」といった役割をつつがなく果たした、施政者としての光秀の能力を、信長は高く評価していました。ただ、信長が最も高く買っていたのは、光秀が持っていた「京都人脈」でした。
つまり、上洛して天下人となった信長にとって、朝廷や公家と仲良く交流できる、文化人としての光秀の能力は大変貴重だったのです。
本能寺の変、光秀謀反の真因は何だったか、議論のあるところですが、信長の悪政を阻止するための光秀の危機管理だった可能性もあると、私には思えるのです。では、明智光秀はなぜ主君、織田信長を討ったのでしょうか。
天正一〇(1582)年6月に起きた「本能寺の変」は、日本史における最大のミステリーです。信長から高く評価されていた光秀が、なぜ謀反を起こしたのでしょうか。
「本能寺の変」の半年前、天正一〇年の年明けまで、光秀には謀反を起こす気はなかったのではないでしょうか。光秀は、信長からもらった茶器で「初釜」(正月の茶の集い)をしています。つまり、この時まで光秀は信長への敬意を持っていた可能性が高いのです。
その年の3月には、信長が武田勝頼を滅ぼしました。長年信長を悩ませてきた武田家が、これで滅亡したことになります。そうなると信長は「俺の敵はいなくなった」と考え、彼の増長がはじまったと考えられるのです。
その象徴的なできごとが、勝頼の首実検です。戦国時代、乱世の事とは言え、首実検においても最低限の死者への敬意は見せるのが当時の常識で、首を拝み、死者にねぎらいの言葉をかけるのが作法でした。
ですが、信長は悪口をいって勝頼の首を蹴飛ばしたと言います。光秀はこの光景をそばで見ており、きっと「常軌を逸した行動だ」と思ったはずです。
もう1つの出来事は、武田攻めの帰りに起こりました。
信長が「せっかく甲斐まで来たんだから、富士山を見て帰りたい」と言ったとき、従軍していた太政大臣の近衛前久が「お供しましょう」と言いました。
すると信長は、「わごれなんどは木曽路を帰れ」と馬上から暴言を吐いたといいます。信長の家臣ならまだしも、太政大臣は今でいう総理大臣であり、きわめて位の高い相手です。それに対して、ふつうなら考えられない暴言を信長は吐いたのです。
光秀はこの光景をそばで見ており、「これはおかしい」と思ったのではないでしょうか。
そしてもう1つ、信長の息子の信忠が、信長に敵対する武将が甲斐の恵林寺に逃げ込んだため、恵林寺を焼き討ちしました。
当時のお寺はいわゆる「治外法権」であり、お寺は逃げてくる人間をかくまうことができました。
ただ、織田勢は、武将を山門に追い上げて、僧侶150人ともども焼いてしまったのです。しかも恵林寺のトップは、天皇から「国師号」というお墨付きをもらった高僧だったのです。
これ以上信長を増長させると、いずれ朝廷に弓を引きかねない、と光秀は感じ、謀反を決意したのではないでしょうか。
「本能寺の変」が起こった理由は、もちろん1つではありません。信長家臣団の中で、光秀が追い詰められていたという面も考えられます。
「本能寺の変」が起こった背景には、このまま信長が応援に向かい、秀吉とともに毛利を討てば、自分より秀吉のほうが上になると光秀が恐れた、という側面もあるかもしれません。
また、四国の大名、長宗我部元親の問題も関係していると思われます。元親が信長に接近した際、橋渡し役をつとめたのは光秀でした。ですが、せっかく信長との仲を取り持った長宗我部が、四国を席巻しそうになり、信長は長宗我部に対して「これ以上、国を広げるな」と待ったをかけたのです。光秀は、これで面目を失ってしまったのです。
光秀が「本能寺の変」で信長を討った理由とは、このように、信長による悪しき政治に歯止めをかけるための、一種の「世直し」だったと思われるのです。
「本能寺の変」は、「下剋上」の1つの典型だった、と今では広く考えられていますが、今でこそ「下剋上」は、社会の秩序を乱す、倫理にもとる、というイメージがあるかもしれません。ですが戦国時代においては、下剋上は実は是認されていました。悪しき政治を倒し、世の中を良くできるなら、「下剋上」は必ずしも「悪」とは考えられていなかったのです。結果が良ければ「謀反人」として非難されることもなかったということです。
ところが、後の江戸時代になると、儒教的な考え方が一般的になり、「武士は二君(じくん)にまみえず」といった倫理が主流になりました。光秀を「主殺しの大悪人」だと考えるのは、江戸時代以降の感覚だと思われるのです。
今回の大河ではどのように制作されるのでしょうか?楽しみなところです。