松江/山陰バリアフリーツアーセンター
総アクセス数:14644203
今日のアクセス数:11899
昨日のアクセス数:11166

津和野を有名にしたのは何?!

2017年06月26日 15:39   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
コメント(0)

ハウル@矢野です。
6月18日(日) 快晴。午前9時30分 JR津和野駅前から津和野観光は出発です。観光協会の方から一言アドバイスがありました。「本町の源氏巻きの製造販売のお店で源氏巻きの耳が無料でもらえるかもしれませんよ。」。頭の隅においてまずは、明治初期に描かれた「津和野百景図」で街全体を把握します。百年以上経過していても当時の街なみや町名はそれほど変わっていないとの事です。
まずは、観光ガイドさんより町の歴史の講話からです。
そもそも津和野という地名は、「つわぶきの生い茂る野」からきたといわれています。「つわぶき」って何?説明を聞いている仲間は知っている様子ですが、ここで少し解説をします。つやのある大きな葉を持っており、毎年秋から冬に、キクに似た黄色い花をまとめて咲かせる。そのため「石蕗の花(つわのはな)」は、日本では初冬(立冬〔11月8日ごろ〕から大雪の前日〔12月7日〕ごろまで)の季語となっている。との事ですが、今ひとつピンときません。津和野城が蕗城(ふきじょう)と呼ばれるのと同様に、山間の町にふさわしい名前だそうです。
津和野城の築城は、二度目の蒙古来襲(弘安の役)の後に、能登国から西石見の沿岸防備のために入部した吉見頼行により、永仁三年(1295)に始められたと伝えられ、以後吉見氏14代が、320年間の長きに渡り居城としました。 室町期、山口に本拠を置く大内氏の台頭により、吉見氏はその傘下に入りますが、その後、毛利家が中国地方全域に勢力を伸ばすとそれに従います。
初期の城下町は吉見氏によって築かれたといわれますが、今日の津和野の礎を築いたのは、関ケ原の戦いの後、吉見氏に代わり津和野城主となった坂崎出羽守直盛でした。 坂崎氏は、宇喜多氏の一族であり、城主だった16年の短期間に、津和野城の大改築、城下町の骨格づくり、新田開発、和紙の原料である楮苗の栽培、灌漑用水路の建設、鯉の養殖など、今日の津和野の礎を築いたのでした。
坂崎氏が「千姫事件」で失脚すると、元和(1617)年に因幡国鹿野城主だった亀井政矩が、4万3千石の藩主として入部します。ここからはかつて、島根県選挙区から選出の参議院議員の亀井氏の登場です。 以後、歴代藩主は産業開発と教育の振興に力を注ぎ、一時は実録15万石といわれるほど華栄しました。産業の中心は和紙生産でした。製紙原料の楮の増産を図り、製紙技術をひろく領内に普及し、この和紙を藩の専売制として莫大な収入を得ました。この和紙でつくられた「姉様人形」がお土産で有名ですね。4万3千石が15万石だなんて3倍以上ですから経済的には裕福だったのですね。
また、藩校「養老館」の創設など、歴代藩主の人材育成重視の施策が、幕末から明治、大正期にかけて活躍した日本を代表する人物たち、国学者福羽美静、近代日本の哲学者西周、文豪森鴎外などの輩出につながります。
旧城下町は津和野川を外堀として南北に細長く造られています。 一部、川の東側に広がる武家屋敷地区には、津和野川から水を引いた外堀が整備されていたらしく、今では埋め立てられて、旧山陰道が拡幅されています。現地にある不釣合いなほど広い道路はその名残だと思います。
通常、城下町は中心部から外縁にむかい、城郭-武家屋敷-町屋の順に配置され、町屋地区の街道筋が通っているものですが、津和野はこれに当てはまりません。狭い盆地の城下町ならではの配置だと思います。 また、武家屋敷町の配置としては、北が上級武士、南が下級武士の屋敷町で、堀割りのある殿町は家老屋敷があり、上級武家屋敷町が町屋地区と隣接していることも珍しいことです。
概略がわかったところでいざ、街中に移動です。
津和野観光のメインは何といっても殿町の景観と錦鯉です。菖蒲が咲き、清水の流れる掘割には鯉が泳ぎ、白漆喰と海鼠壁の土塀と立派な屋敷門の形成する景観は、誰でもが美しいと感じます。街の中心部なのに、車の通りが少ないです。国道9号線が街中を通っていませんので、通過する車はないようです。
。町の町並みは、旧家老多胡家の屋敷門・土塀沿いに流れる堀割・屋敷門の奥にある町役場(旧鹿足郡役場)城下町にしては広い道路と掘割の水は、防火のためだといわれていますが、流れる水はどこから流れてくるのでしょうか。
何故、鯉を放すようになったかですが、城下は再々火事にみわわれたそうです。一度、出荷すると山口側から増田に向けて強い風によってみるみるうちに炎症したという事です。もともとは防火用水だったのです。街中で水が淀むとボウフラなどが湧くので鯉に食べさせるというのです。もう一ついい事はいざという時の食用としたようですが、普段は鯉を盗むと厳罰になったそうです。この事から町民は鯉を食べる習慣がないそうで、また、愛護の精神の教育にもなっているとか・・・。
城下町の水は盆地なのにどこから引かれているのでしょうか?
津和野川の川床は町の地盤よりかなり低いので、当然上流から引いてくることになります。現在は、旧藩主邸(現津和野高校グランド)横でポンプで川から汲み上げているようですが、往時はもっと上流から引いてきたのだと思います。
殿町の北側に広がるのが町屋地区です。2階の窓には雨戸が3重になっていて、しかも横にスライドするのではなくて、上にずり上げて収納するのも驚きでした。今も残る商家は、どれも切り妻平入りの中二階建又は二階建で、石州瓦(桟瓦)の赤瓦葺、二階は白漆喰の袖壁があり、虫籠窓か格子窓が一般的のようです。なんといっても この景観が、最も津和野らしく、最も美しい。です
それと、殿町と本町の境目に江戸時代には城と町屋は大きな門で区切られていたとか。一般的には、外堀があり、きちんとわかりますが、門がない現在ではチョットだけ面影がのこるだけです。
 ここを訪れる観光客は、みんな決まって清流を泳ぐ鯉と菖蒲を写していました。
目を引くのが、木造3階建てです。「骨董古布」の暖簾のかかる土産屋のようですが、変わった構造をしています。
まだまだ、観光は続きますがこのあたりで街並み散策は終わりたいと思います。
「最後に、「鯉の米屋」さんを紹介しておきます。
昔ながらの米俵を軒に列ね、木彫りの「鯉のおる米屋」という看板が目印です。ここの店の奥には、水路を引き込んだおおきな池があり、色とりどりの錦鯉が群れをなして泳いでいます。餌をまくとその姿は圧巻。かつては津和野の家々にはこのような鯉を飼う池があり、観賞用として愛でていたようで、とくにこの吉永邸の鯉は、質・量ともに他を圧倒しています。
「店構えはお米屋なので少し戸惑いますが、見学は大丈夫です。御主人。見学は無料で、気さくな御主人や奥さんがやさしく迎え入れてくれますよ。
ご主人は鷺舞保存会の会長だとか?