松江城を築城した堀尾氏の菩提所円成寺(えんじょうじ)
ハウル@矢野です。
6月3日に梅雨入り後は、スッキリしない天気が続いていますが、松江城の国宝指定から相変わらず観光客の多いこちら松江市です。
堀川遊覧船などは、満員状態で、船頭さんを追加募集しているくらいです。
前述では、松江藩藩主の松平家の菩提寺であります月照寺をご紹介しましたが、初代松江城築城の堀尾家の菩提寺については、松江市民でも、知る人ぞ知るというイメージがあります。
遅ればせながら今回は、堀尾氏の菩提寺でありますところの円成寺の紹介です。
松江に堀尾吉晴の入城を再現した武者行列のイベントが行われますが、このお寺の墓所ににうちそろってお参りをします。
さて、このお寺は、旧松江市街南端の松江市栄町にあります。松江城から南に宍道湖大橋を渡り国道9号線を跨いだところで、旧国道9号線(昔の街道)沿いにあります。
今現在では、新国道9号線や卸団地が宍道湖を埋め立てて陸地となっていますが、当時は、この円成寺のある小高い山は、岬のように飛び出した地形となっていました。今でいう「夕日スポット」であったのではないかと思わせます。
旧国道からは、正面数十段の石段を登ったところに本堂があり、来待石で造った大石灯篭が迎えてくれます。
本堂正面には吉晴(左)と忠氏の肖像が描かれた二幅の掛け軸があり、奥の廟(びょう)所には忠晴夫妻の木像と堀尾氏三代の位牌(いはい)が安置されています。
本堂に入って見上げると、梁(はり)の上に飾りがあり、いずれも家紋で、図柄は5種類あります。「家紋で堀尾家の歴史の一端を目で見ることができる。貴重な財産」だということです。ルーツは天皇家ともかかわりがあった可能性もあるといいます。
ここで、堀尾家の家紋で分かる3代の歴史を引用します。
月山富田城(現安来市広瀬町)に入城した吉晴は1611(慶長16)年、松江への移城にあたり富田にあった菩提寺を洗合(現松江市外中原町)に移し、新たに瑞応寺(現天倫寺)を建立して堀尾家の菩提寺にした。
その後、3代・忠晴が亡くなり堀尾家は断絶。京極忠高が藩主になり、1635(寛永12)年、瑞応寺は現在の場所に移るとともに、忠晴の法号にちなんで「鏡湖山円成寺」と改める。
瑞応寺、円成寺ともに開山したのは浜松から吉晴とともに移り、「松江」の命名者ともいわれている春龍(しゅんりゅう)和尚で、円成寺は春龍和尚が別荘として建てた「臨江庵」跡。庭園にある「来待石六地蔵灯籠」は2メートル近くもある立派なもの。400年の風雪に耐え、今でも重厚な姿は往時の面影を残している。
境内の墓地で探し求めた忠晴の墓は、奥の石段を上った先にある。さらに石段を上った先にある祠(ほこら)は、吉晴と親交が厚かった加藤清正の寄進という。古くから火除稲荷(ひよけいなり)として知られ、今でも多くの住民が祈願に訪れる。さらに石段を上ると宍道湖が一望できる眺望が自慢の山頂に出る。
ここからは、五種類の家紋の紹介です。
五七(ごしち)の桐(きり)
3枚の葉の上に3本の枝。中央には7輪、左右には5輪の花がある。一般には「五三の桐」が多い。天皇家に縁がある紋だが、堀尾家とのかかわりは不明という。一説には豊臣秀吉が授かったものともいわれている
抱茗荷(だきみょうが)
堀尾家の先祖・高階家から受け継がれ、堀尾家の中でも当初使用されたといわれる。関ケ原の戦い当時も抱茗荷の紋が使われていたようだ
法馬(ほうま)
丹波・但馬などで多くの功績をあげた堀尾氏が秀吉から賜ったといわれ、戦場での旗印だった。法馬は両替てんびんの重りに使った分銅(ふんどう)のことで一般的には分銅紋と呼ばれる
六目結(むつめゆい)
結いは協力や団結の意味がある。いつから堀尾家の紋になったかは定かではないが、忠晴のころに多く使われたといわれている
寺紋
円成寺の紋は堀尾家の家紋の「分銅」と「六目結」を並べている
松江城の石垣には、石を寄贈した人たちの家紋が数多く刻まれています。その一つ一つを触って見るのも当時の事が偲ばれます。やはり、そ中でも一番多いのは、この分銅紋です。
今度松江城に行かれる機会があれば是非、触ってみて下さい。分銅をイメージして触って見ると三角形の感じに理解出来ます。