松江藩(松平家)の藩主の暮らし(前編)
ハウル@矢野です。
松江市では、「松江城を国宝にしよう!」という運動が進められています。
今回は、江戸時代のお殿様の食事や暮らしぶりを紹介します。
松江藩は、石高18万6千石でしたので、そんなに大きい藩ではありませんでしたが、大名は1万石からといいますからそこそこだったのでしょう。
松江城では、お殿様が過ごされたのは、三の丸御殿です。
昔の藩主の御殿場所(松江城三の丸跡)は、現在の島根県庁が建っているところにありました。
同じ三の丸にお殿様の料理を作る台所もありました。 御台所には奉行2人、添奉行2人が勤めました。このほか約150人が勤めたそうです。
料理の分担の仕方は、こうです。
御台所は塩梅(あんばい)役・御料理人・板前・御飯方・汁方...など細かく分担がありました。
塩梅役は江戸の名店で研究を重ねた料理人が勤め、味見や毒見をしました。藩主の献立はこの塩梅役と侍医が健康状態や前日の箸の付け方を見て決めたそうです。
最も難しいのは料理人で、「真那箸(まなばし)」を使って食材に手を触れず調理をするという、高度な技術を持っていました。
料理法は、こうです。
城内の食事は大体において贅を尽くしたものでありましたが、特に鶴の料理、鯉のすがた見、袋鴨、鯉の糸作りといった料理が上等で、これらの料理は真那箸を使いました。
箸で皿を洗ったり直に魚や鳥肉に触らずに料理をするのですから、達人の域です。まるで曲芸のようですね。
この料理法は、古くからの日本の料理法なのだそうです。お殿様の口に入る物に触れてはいけなかったようです。
常時の食事と祭事の料理の数(皿の数)は柱立といいます。
柱立とは膳に乗せる汁・皿の数を定めたもので、藩主は通常一汁五菜、特別な日は最高の三汁十菜でした。
正月は最も贅美を尽くし、初献から三献までの御式(始めは生で出し、後の御引替膳を召し上がる)の後、御高盛といってまた初献から三献までを行い、その後やっと三汁十菜の御引替膳を自由に召し上がる事ができました。
お殿様の食事の残りを下げ渡される人も決まっていた訳ですからお殿様も全部たべれなかったようです。
ご家来方も特に祭事の時は、待ち遠しかったのでしょうね。
後篇に続きます。