松江/山陰バリアフリーツアーセンター
総アクセス数:14666460
今日のアクセス数:513
昨日のアクセス数:7875

松江/山陰バリアフリーツアーセンター の活動状況や、各種お知らせを掲載します。

2023年「第16代堀尾吉晴公松江武者行列」の開催日が決まりました!!

2022年12月27日 10:54   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
コメント(0)

ハダル@矢野です。

冬将軍が日本列島に来襲してきましたが、皆様は、如何お過ごしでしょうか?

今回は、2023年「第16代堀尾吉晴公松江武者行列」の開催日が決まりました!! の紹介をします。
松江武者行列は、松江開府の祖、堀尾吉晴公とその一行が松江城に入城する様子を再現したものです。
開催日 2023年4月8日土曜日
※雨天時は行列を中止する場合があります。
※新型コロナウイルス感染症対策を考慮しながら行います。

2023年の松江武者行列の参加者を募集しています。
【一般公募役柄】
馬廻り衆 6人
赤備え武者 11人
侍女 18人
女武者 18人
法螺貝武者 6人
吹流し持ち 4人
銅鑼武者 2人
旗持ち武者 2人
笛武者 9人
子ども笛武者 2人
太鼓隊 10人
子ども法螺武者 2人
堀尾鉄砲隊 11人
子ども武者 10人
弓隊 10人
子ども侍女 10人
【特別公募役柄】
甲冑衣装持ち込み参加枠「参陣武者」
ご自身の自慢の衣装を身に着けて松江武者行列に参加いただけます。
募集人数 6名 (衣装事前審査 / 先着順)

【注意事項】
※子どもはおおむね小学4年生から6年生まで
※演出の都合により、募集の役柄や人数を変更する場合がありますのでご了承ください。
※衣裳は持ち込み不可とし準備したものを着用させていただきます(参陣武者を除く)

参加費
1,000円(小学生500円)
応募資格
中学生以上の男女 (一部を除く)
締切 2022年12月26日 月曜日
※定員に満たない役柄は継続募集します。

下のホームページをご覧になり、
お申込みいただけますようよろしくお願いいたします。
https://www.musha-gyoretsu.jp/entry/

時代衣装 着付けスタッフ募集
「松江武者行列」を通して普段なかなか見ることのできない美しい時代衣装の着付けを体験してみませんか?
講習会を開催いたします。
初めての方、大歓迎です!

内容
・「松江武者行列」参加者の着付け
約150名の「松江武者行列」参加者の当日着付け、補助。

スケジュール
・着付け講習会
日時 3月18日土曜日
受付 12時30分から13時 講習会 13時から16時30分

日時 3月19日日曜日
受付 9時30分から10時 
講習会 10時から13時
※いずれかご都合のつく日にご参加ください。

場所
松江市国際交流会館 (松江市西川津町3405-5)

指導
京都 (株) 井筒企画
※18日に参加された方で、もう少し練習したい方は両日参加いただくことも可能です。

●第16代堀尾吉晴公松江武者行列
2023年4月8日土曜日 「松江武者行列本番」参加者着付け

応募資格
以下の方を募集しています。
着物、時代衣装の着付けに興味のある方
「松江武者行列」を通じて、松江を盛り上げたい方
4月8日土曜日 本番の「松江武者行列」参加者への時代衣装(甲冑、打掛など) の着付け、
補助(8時から10時頃まで、昼食付、可能な方は片付けもご協力ください)の参加を前提とした着付け講習会。

受付締切
2023年2月28日 火曜日
詳細は下のホームページをご覧ください。
https://www.musha-gyoretsu.jp/entry/

プロジェクトゆうあいは、松江武者行列に協力させていただいております。

お申込み先
事務事業受託先
NPO法人 プロジェクトゆうあい(担当 : 川瀬)
〒 690-0056 島根県松江市雑賀町 227
電話 0852-61-0199
ファックス 0852-27-7447



しめ縄・しめ飾りの意味と由来

2022年12月20日 13:31   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
コメント(0)

ハダル@矢野です。

松江市では、大雪注意報が出ていただけに今朝は3cmくらいの積雪になりました。
奥出雲町では、45cmとか、中国山地では、積雪が多いようです。


今年もあと10日余りとなりましたので、しめ縄・しめ飾りの意味と由来を説明しますので、ご参考にして下さいね!
最近では、少し違ってきていますが、本来はこういうものだと思って下さい。
そもそも正月行事というのは、年神様という新年の神様をお迎えするための行事です。
年神様は家々にやってきて、生きる力や幸せを授けてくださると考えられています。
そこで、お正月が近づくとしめ縄やしめ飾りを施し、年神様を迎える準備をしますね。
しめ縄(注連縄)には、神様をまつるのにふさわしい神聖な場所であることを示す意味があります。
しめ縄が神の領域と現世を隔てる結界となり、その中に不浄なものが入らないようにする役目も果たします。
その由来は、天照大神が天の岩戸から出た際に再び天の岩戸に入らないよう
しめ縄で戸を塞いだという日本神話にあるとされ、「しめ」には神様の占める場所という意味があるといわれています。
しめ飾り(注連飾り)というのは、しめ縄に縁起物などの飾りをつけたものをいいます。
代表的なのが、神様の降臨を表す「紙垂」(かみしで/しで)、清廉潔白を表す「裏白」、
家系を譲って絶やさず子孫繁栄を願う「譲り葉」、代々栄えるよう願う「橙」などです。
もともとは、神社がしめ縄を張りめぐらせるのと同じ理由で、
自分の家が年神様をお迎えするのにふさわしい神聖な場所であることを示すために始まったといわれています。
しめ縄やしめ飾りを結界として施すことで、その内側が清らかな場所となり魔除けにもなるため、
年神様が安心してきてくださるわけです。

【輪飾り】も飾っていますか?
細いしめ縄を輪にしたものに、譲り葉や紙垂をつけた小型のしめ飾り。
部屋、キッチンやトイレなどの水まわりに飾るほか、門松と組みわせて飾る場合もあります。
最近では、もう飾らなくなってしまったでしょうか?


最近はモダンなタイプも多く、おしゃれなしめ飾りを手作りする方も少なくありません。
お好きなもので構いませんが、本来の意味を考えると、わらを使ったしめ縄を用いることが大切です。
また、縁起ものには日本の文化が息づいていますので、1つでも取り入れると良いと思いますよ!


マンションでも、玄関ドアにフックをつければ簡単に飾れます。
マグネットがつくドアなら、マグネット式フックがおすすめです。




しめ縄・しめ飾りは、本来は12月13日のすす払い(大掃除のルーツ)が終わり、
年神様をお迎えするのにふさわしい場になってから飾るものでした。
このため、12月13日を正月事始めといい、正月準備を始める目安となっています。

現代なら、大掃除が終わり、年神様を迎える準備が整ってからしめ縄・しめ飾りを飾ります。
大掃除は年末と決まっているわけではありませんから、13日以降早めに飾っても構いませんが、
今はクリスマスが過ぎた25日以降に飾り始める方が多いようです。
ぎりぎりにならないよう、28日までを目安にすると良いでしょう。
なお、29日は「二重苦」「苦」に通じるので縁起が悪いとされ、31日も一夜飾りになるので避ける風習があります。
こうして正月の年神様をお迎えし、松の内(1月1日~7日。地域によっては15日まで)を過ぎたら外します。
松の内が7日までの場合、一般的には7日(7日の七草粥を食べた後など)に外しますが、
日付が8日に変わってから外すところもあります。
でも最近では、4日にはずしてしまうご家庭が多くなってきていますが、本来は
そんなに早くはずさなくてもいいようです。
最後にご存じとは思いますが、しめ縄・しめ飾りを焼く日、捨て方について説明します。
左義長(どんど焼き)では、正月飾り、だるまなどの縁起物、書き初めなどを燃やします。
しめ縄・しめ飾りを外したら、15日(あるいはその頃)に地域や神社などで行われる
左義長(どんど焼き)で焼き、正月行事に区切りをつけます。
左義長に持っていけない場合には、指定の場所に納めると焼いてくださる神社もあるので聞いてみてください。
地域によっては、しめ飾りを回収してくれるところもあります。
また、無理な場合には燃えるごみとして出しますが神聖なものですから、ほかのごみとは別の袋に入れたり、
紙に包んでからごみ袋に入れたり、清酒や塩で清めてからごみ袋に入れたりすると気持ちが良いと思います。
ご参考にしてみて下さい!



江戸時代の大名は、相撲好きだった?!

2022年12月15日 10:49   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
コメント(0)

ハダル@矢野です。
今年の冬は、今までは暖かい様子でしたが、松江市でもお天気マークにとうとう雪印が予報されています。
花壇には、カメムシが多い我が家です。

さて、江戸時代の大名は競ってお抱え力士を持ち、互いに競い合い、従って相撲が
民衆にも普及し各地で工業が盛んにおこなわれていました。
松恵藩でも雲州力士もはばをきかせました。
当時の川柳に「雷電と稲妻雲の抱えなり」。
何やら荒れ模様の空を詠んだような感じですが、相撲好きにはピンとくるに違いないでしょう。
雷電為右衛門と稲妻雷五郎。
ともに江戸時代後期に活躍した強豪力士として歴史に名を残す有名力士です。
「雲」とは雲州松江藩を指す相撲好きの藩主が強い力士のパトロンとなることで、藩の力を競い合った時代です。
松江藩も、大名茶人・不昧(ふまい)公として知られる松平治郷(はるさと)らが熱心だったといいます。
19世紀初頭の番付では、西方の幕内上位6人を雲州力士が独占していたほどです。
雷電は横綱になることはありませんでしたが、21年にわたる力士生活で勝率9割6分以上と無敵を誇りました。
第7代横綱となった稲妻も幕内16年で負けはわずか13だったといいます。
来年1月には、初場所が蔵前国技館で始まります。
島根県隠岐郡隠岐の島町出身の「隠岐の海」が現在では、最高位は関脇で、幕内力士として活躍しています。
先場所も勝ち越ししています。
応援をよろしくお願いします!



明治維新の廃城の危機にもこうして生き残った松江城!

2022年11月22日 14:15   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
コメント(0)

ハダル@矢野です。
11月も終わろうとしていますが、春のような陽光のふりそそぐ松江市です。
突然に冬将軍が来るのでしょうか?

さて、今回は、「明治維新の危機にも生き残った松江城!」という話題です。
日本全国には、約1700あったと言われる城郭も江戸時代に入ると、
幕府の一国一城の命令が下され100以下になりました。
明治維新とともに新政府からの廃城令により20城となり、太平洋戦争により8城が消失し、
現存する天守は12城が残るだけとなりました。
戦国時代から思いを馳せるとお城の数は1000分の1となった訳です。
当地の松江城は、江戸時代から戦災にも遭遇することもなく運が良かったと言わざるを得ません。
松江城存続の一番の危機は、明治新政府発令の「廃城令」です。
この時の逸話が残っていますので引用します。
まずは、当時の背景からです。
江戸幕府は、同ペリー率いる米国艦隊の浦賀来航をきっかけに開国をしました。
尊皇攘夷(じょうい)運動から倒幕運動へと転換していく中、親藩だったにもかかわらず、
松江藩は大きな戦いに巻き込まれず、1867年の大政奉還を迎えました。
翌68年、松江藩に新政府への恭順の意を示させようと訪れた鎮撫使(ちんぶし)一行が藩の対応に不満を持ち、
家老の切腹、嗣子の人質などを要求する「山陰道鎮撫使事件」が起きました。
鎮撫使を務めたのは後に首相となる西園寺公望です。
藩は「勤王奉仕」の誓書を提出し、新政府に恭順の意を示しました。
この時に活躍したのが、以前に掲載しました「松江藩のジャンヌ ダルク」こと「玄丹おかよ」という女性がいました。
西園寺ら一行は松江藩に難題を幾つも振りかけ家老切腹の危機を女の度胸と毅然とした態度で掬ったと言われています。
68年の版籍奉還後、最後の藩主である松平定安は知藩事に任命され、松江城は陸軍省の所管となりました。
71年、廃藩置県に伴い、定安は知藩事の職を解かれ、松江藩は松江県になり、松平家の統治は終わりを告げました。
日本の城郭は、明治初期、新政府の廃城令に伴い、各地で取り壊されました。
松江城天守も民間に払い下げられ解体寸前となりました。
ここで登場したのは、出雲市斐川町の豪農・勝部本右衛門栄忠(もとえもんしげただ)、景浜(かげはま)親子が、
私財を投じて買い戻し、保存が決まりました。
松江城は1871年に廃城が決定。天守は陸軍省広島鎮台の所管となり、民間に払い下げられました。
75年には入札が始まり、180円で落札が決まりました。
180円はコメの価格を基準に換算すると現在の約120万円に相当するそうです。
勝部家は松江藩政下で銅山の採掘に携わり、屈指の財力を持つ豪農として知られていました。
銅山の経営指導に当たっていた松江藩の「銅山方」だった元藩士高城権八から、
天守解体の旨を聞いた勝部親子は買い取りを決意。
落札価格と同額を広島鎮台に上納しました。
その後、勝部親子によって買い取られた天守は、修復など手を付けられることがなかったとのことです。
こんな大きな家など個人的には必要ありません。
松江城の取り壊しを取りあえず延ばしたのにすぎたかもしれませんが、その後松江市民から声が上がり、
松江市の管理となり現在に至ります。
松江城の落札価格が現在の約120万円に相当するというのも少し驚きですが、
買い取り後の維持管理費を考えれば厄介者ですね。
国宝となったのも、この勝部家親子の寄付?があったからこその栄冠となった訳ですね!



シジミで有名な宍道湖東南部の住宅街に不思議なトラック道路は何?!

2022年11月08日 10:38   松江/山陰バリアフリーツアーセンター
コメント(0)

ハダル@矢野です。
11月に入り、朝晩はメッキリと寒くなり、暖房を入れないといけなくなって来ましたが
ここのところのエネルギー価格の高騰でどうしたものかと考えてしまいますね。
さて、今日は私の住んでいる宍道湖の東南部の住宅街に不思議なトラック道路があり、
もしかして、何かの跡地なのかと思い少し調べて見ました。
そこは、住宅地図を見ると、くっきり楕円形になっていて、周回1Kmの競馬場跡なんです。
車で迷い込むと出口がわからなくなるとか・・・。
私と盲導犬ハダルは、毎日2回散歩に使用しています。
何故なら、きっちりと1㎞ですので、2衆したら2㎞と計算しやすいからです。
それにほとんど、平地で、言ってみれば、バリアフリーだからです。
その道路は、カーブの見通しもやや悪く車で走って見ると道、1周約1キロ。
本当にサーキットかのような形ですが、ところどころで対向車とすれ違うのに苦労するほど道幅が狭くなり、
カーブの見通しもやや悪いところもあります。
ふと、カーブミラーが付いた電信柱に目をやると、そこに競馬場跡だったというヒントがあります。
NTT西日本のプレートに記されていたのは「競馬場」という文字。
郷土資料などを調べると、100年近く前、この場所に「松江競馬場」があったことが分かります。
1929年にオープンした松江競馬場は1周1千メートル、走路幅約16メートルのコースを備え、
当時、「関西随一の競馬場」と評されにぎわったという。
だが、不況による経営不振や戦局の影響で、わずか8年後の37年に廃止となった。という事です。
その後、戦後に外地からの引き揚げ者や建物疎開の対象となった人々による宅地需要が増え、
広大な市有地である競馬場跡地に目が付けられたようです。
46年度以降、「走路」とその外周に計59棟の市営の集合住宅が建設されました。
現在では、かつての走路沿いは、ぐるっと建物がほとんど空き地もなく建ち並んでいます。
その後、走路の内側も建ち、走路はそのまま道路として残った訳です。