ハダル@矢野です。
旧暦10月になり、現在、出雲大社では、神様がお集まりになり来年の諸事について会議中です。
縁結びなどの重要項目についても決められますので、会議終了までは、会議の邪魔にならないように静かに過ごす出雲地方です。
今回は、宍道湖の冬鳥のバードウォッチングの紹介です。
11月に入り、鳥取県西部の大山では、山頂にはすでに冠雪がありかなりふもとの方まで紅葉がおりてきました。
宍道湖では徐々に越冬しようと水鳥が湖面に浮かびだしました。初冬の宍道湖は、北西の風が強く吹き、湖面は茶色く濁ります。また、時々雪混じりのみぞれもふります。波も荒く雲も低く垂れこみます。
宍道湖・中海は平成17年11月に「宍道湖・中海」がラムサール条約湿地に登録されてから、16年を迎えました。
湖面に浮かび羽を休める水鳥の姿は、両湖の冬の景色には欠かせないものとなっています。
これらの水鳥を観察する施設として、宍道湖の西岸には「宍道湖グリーンパーク」があり、無料で利用することができます。
双眼鏡や水鳥の解説書などもありますので、気軽にバードウォッチングを楽しむことができます。
また、斐伊川河口の右岸側の「宍道湖西岸なぎさ公園」には、駐車場とトイレが整備されています。
この周辺の田んぼでは、落ち穂などの餌をついばむマガンやタゲリに出会えるかもしれません。
見られる鳥は、マガン、ヒシクイ、コハクチョウの集団越冬地。汽水湖としての特性から、ハジロカモ類、特にキンクロハジロが多棲します。
カモ類は、20種程度が3万~5万羽越冬します。その多くはキンクロハジロを中心とするハジロ類とマガモを中心とするマガモ類です。
コハクチョウも800羽を越え、斐伊川河口部がねぐらの中心ですが、宍道湖東北部の潟の内と呼ばれる小さな池に400羽を越える群れがねぐらとするようになってきています。
詳しくは下記、宍道湖グリーンパークまで、お問い合わせ下さい。
宍道湖グリーンパーク 最新情報
https://www.green-f.or.jp/gp/
mail:greenpar@green-f.or.jp
管理運営:公益財団法人ホシザキグリーン財
ハダル@矢野です。
11月に入り、旧暦10月となり、出雲では、出雲大社に全国から神様がお集まりになり、来年の縁結びを会議されています。
でも、皆様のところも留守番の神様がちゃんと見ておられるそうなのでご安心ください。
さて、今回は、華道日本の三大流派「小原流」の創始者 小原 雲心は松江市生まれという話題です。
松江市雑賀町(さいかまち)で生まれた小原(おはら)雲心(うんしん)は、明治時代の終わりごろ、華道生け花「小原流(おはらりゅう)」を新しくつくりました。
底が広くて浅い花器の中に、花を盛るように生ける独創的な「盛花」を生み出しました。
今では、300以上といわれる流派(りゅうは)の中で池坊、草月とともに、三大流派として知られています。
雲心は生家の高田家が代々、陶芸を職業としていて、父の友人から生け花を習いました。
1880(明治13)年、市内竪町(たてまち)の小原家に移転の養子になります。
小原家は代々、松江藩の御用金に関わる仕事をしていた裕福な商家でした。
雲心は、お茶やお花に親しむ不自由のない生活を送り、彫刻家(ちょうこくか)の荒川(あらかわ)亀斎(きさい)ら松江の有名な工芸家と交流を深めました。
そして、明治時代になると藩の支えがなくなり、当主の死去もあって小原家は次第に没落していきました。
雲心は1889(明治22)年、彫刻家を目指して大阪へ行きます。
才能が花開き、京都美術展に出品した作品が明治天皇お買い上げの名誉を得ました。
彫刻家としての雲心の名声は高まり、制作依頼も増えていきます。雲心は彫刻家としての通称です。
しかし、持病があり医師の勧めもあって、体力の消耗が激しい彫刻家を断念し、生け花を仕事にすることにしました。意外にも陶芸家としても一流だったのです。
雲心は1895(明治28)年、花の形や色の組み合わせの美しさを表現する「色彩盛花」を考え出しました。輸入され始めたゼラニウムやシクラメンなど、色鮮やかな西洋の花を積極的に生け花に取り入れました。また、自然の景観を表現する「自然盛花」も生み出しました。
そして、1912(明治45)年には大阪の百貨店で「第1回小原式盛花大会」を開催。生活の洋風化とともに、幅広い世代の関心を集めました。
小原流は5代目家元の現在、国内外に多くの会員を擁する一大生け花流派になっています。
松江市からこのような偉人がおられたのには、ビックリしました。いろいろと調べてみるとまだ他にもあるのかもしれませんね!
松江のハダル@矢野です。このところ季節が一気に進んだようですね。
昼間でも少し寒さを感じる季節となりました。
さて、今回は、昔なつかしくまた、現代にも通ずる何かを体験出来るスポットを
紹介します。
島根県の東部、松江市に出雲かんべの里はあります。
近くには神魂(かもす)神社・八重垣神社・風土記の丘・国庁蹟などの
史跡があります。
施設は、民話館 工芸館 自然の森で構成されています。
民話館では、6人のかたりべが毎日違った昔話をいろりを囲んで語ってくれます。
「とんとんむかし」ではじまり出雲弁も軽やかに「こっぽし」まで
お話しをします。
私が訪れた時には、「出雲のこぶとりじいさん」でした。
地方によって、内容が異なるそうです。
隣のシアターでは、「耳なし芳一」を上演していました。
また、昔の農機具やみのや傘なども展示してあります。
民話館を出て5分程で工芸館に付きます。
工芸館には、4つの工房があり、作家による工芸品の製作過程の見学や、
作家の指導による体験学習が行えます。
籐工芸・機織り・陶芸・木工です。
どの工房も講師が新設に指導してくれます。
私は、すでに4回体験しています。
陶芸が2回、機織り1回、藤籠1回です。
目が不自由な人でも出来ますよ!
材料代だけでモノづくりの体験が出来ます。
例えば、陶芸などは、粘土750gが2000円で、
お皿やマグカップくらいの物なら2個くらいはできそうです。
絵付けや釉薬も料金の中です。
また、機織りは、最初は、コースターくらいのものが500円です。
私は、陶芸に挑戦したいと思いました。
粘土が固まらないうちに先生が修正して、
なんとか見栄えも良くしてくれるそうです。
工房は、2階にありますが、エレベーターもありバリアフリーです。
また、ランチは、要予約ですが、珍しいものも食べられますよ。
例えば、ドイツ料理なんかどうですか?
あとは、「自然の森」ですが、森を散策しても気持ちの良い季節です。
季節に応じて虫や植物の観察会も、もようされています。
多種の樹木が軍政していて、森林セラピーも感じられます。
島根県松江市 出雲かんべの里ホームページ 民話館・工芸館・自然の森
http://kanbenosato.com/index.html
ハダル@矢野です。
「国際文化観光都市」。聞き慣れない名前かもしれません。
それもそのはず、全国で3都市しかありません。
松江市が京都、奈良両市に次ぎ日本で3番目に
国際文化観光都市になったのは1951年です。
今年で70周年というわけです。国の法律によって定められているんです。
松江国際文化観光都市建設法が同年3月に制定され、
住民投票を経て誕生しました。
同法の目的に、文化観光資源の維持開発及び文化観光施設の整備によって、
国際文化の向上を図り世界恒久平和の理想の達成に資する-
と、いかにもこむずかしい事なのですが、目的は、こういう事なのです。
国際面は「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の文筆を通じて世界的に
著名であることにかんがみて」とし、
作品を通して世界に松江を紹介した八雲に頼っていというわけです。
誕生から70年になるわけですが、
松江市は京都、奈良に伍(ご)する国際文化観光都市に成長したのでしょうか?
レイクラインバス(松江市営の定期観光バス)が主要観光地を巡り、
堀川遊覧船も運航されています。
また、松江城天守は国宝に制定されました。
文化観光面はそれなりに進んできたように思えます。
ですが、国際面はどうでしょうか。
国際交流、外国語での案内表記などは進んできたものの、
国際都市になったと胸を張れるほどではなさそうです。
国際交流員をはじめ出席者が口をそろえていたのが「人情味」です。
歓迎する気持ちを大切にし、
外来の人に松江の良さを説明できるようになることこそ、国際化の要諦です。
何より住民が楽しく生き生き暮らすことが大切です。と私なりの結論です。
バリアフリー観光でも国際化に向けての制作も数多く実施されつつあります。
今日は、理解に苦しむ内容になってしまいましたね♪
松江のハダル@矢野です。10月に入ったのに真夏のような松江市です。
コロナウイルス感染防止の緊急事態宣言が先月末で終了し、
最初の土、日では、観光客もどっと押し寄せた模様です。
みんな、相当に我慢していたのでしょうね。
まだ完全にコロナウイルスが死滅した訳ではありませんので、
気をつけて過ごしたいと思います。
さて、今日はへるんさんのお話です。
小泉八雲(ラフカディオ ハーン)は、松江では「へるんさん」と呼ばれています。
松江に赴任した時の辞令書の名前が
「ラフカディオ ヘルン」と書かれていたそうです。
当時の島根県の役人も、相当の英語力だったと想像します。
だからこそ外国人の英語教師を招いたんですね。失礼しました。
八雲は、「へるん」が気に入りその後は、自分でもそう言っていたそうです。
「小泉八雲旧居」は少し前までは「ヘルン旧居」と呼ばれていました。
あと「へるんヨウカン」が思いつきます。
八雲が好んだようかんで、
東京へ行ってからも取り寄せるくらいだったそうです。
甘さ控えめのわりとさっぱり感があります。
また、晩酌はビール大びん1本だったそうで毎日女中さんが買いにこられていた。
とは、江戸時代から薬局をされているお店の方から伺いました。
当時は、ビールは薬局で売られていたのも驚きです。
ちなみに銘柄はアサヒです。
ところで、八雲は、旧制松江中学の英語教師として赴任しました。
その時の月給は、100円でした。
これは、県知事の次に高い月給でした。
その後、熊本の五高では、松江での倍学の200円でした。家賃は11円。
校長の年収が1800円だったそうですから、
八雲のほうが多くもらっていたわけです。
ちなみにその時の校長は、あの柔道の加納治五郎でした。
少しミスマッチな感じがします。
八雲は、松江でセツさんと結婚しましたが、実家に仕送りをしていたそうです。
給料が安いので、松江は住みやすかったが仕方なく転勤(?)という噂もあります。
やっぱり、へるんさんも背に腹はかえられなかったようです。
その後は、神戸を経て、東京大学では、450円の月給をもらっています。
とんとん拍子に出世したようです。
このようなお話を聞きながら、へるんようかんを味見したり、
松江をおちらと歩きをしています。
それにしてもガイドさんは、こぼれ話をよくご存じです。
あっ、そうそう、八雲は、子供のころに片目を失明しています。
また、もう片方も相当な弱視だったと言われています。
奥様のセツさんに文字に起こしてもらっていたようです。
だから、松江の朝の音に敏感だったのでしょうね。
米をつく音、松江大橋を渡る人の下駄の音、野菜売りの声など・・・。
このお話は次にしますね。
以下に「飴を買う女」を引用しておきます。ちょっと、ぞっとしますよ!
「飴を買う女」
中原町にある大雄寺の墓場にはこんな話がある。
中原町に、水飴を売っている小さな飴屋の店があった。
水飴というのは、麦芽からつくった琥珀色の糖液で、
乳のない子あたえるものである。
この飴屋へ、毎晩、夜が更けてから色の青ざめた女が白い着物を着て、水飴を一厘買いにくる。
飴屋は、女があんまり痩せて、顔の色が悪いものだから、不審に思って、
親切にたびたび尋ねてみたが、女は何も答えない。
とうとう、ある晩のこと、飴屋は物好きに女のあとをつけて行ってみると、
女が墓場へ帰ってゆくので、飴屋は怖くなって家へ戻ってきました。
そのあくる晩、女はまたやってきたが、その晩は水飴は買わずに、
飴屋に自分と一緒に来てくれといって、しきりに手招きをする。
そこで飴屋は、友達と語らって女の後について墓場へ行ってみた。
とある石塔のところまでくると、女の姿がぱっとかき消えた。
すると地面の下から、赤児のなき声が聞こえる。
それから、みんなして石塔を起こしてみると、墓の中には、
毎夜水飴を買いに来た女の骸(むくろ)があって、そのそばに、
生きている赤児がひとり、差し出した提灯の火を見て、にこにこ笑っていた。
そして、赤児のそばには、水飴を入れた小さな茶碗がおいてあった。
この母親はまだほんとに冷たくならないうちに葬られたために、
墓の中で赤児が生まれ、そのために、母親の幽霊が、
ああして水飴で子供を養っていたのである。
――母の愛は、死よりも強いのである。