「へるんさん」ってこんな人だったの?!
ハダル@矢野です。
今日はへるんさんのお話です。
小泉八雲(ラフカディオ ハーン)は、松江では、「へるんさん」と呼ばれていました。
松江に赴任した時の島根県の辞令書の名前が「ラフカディオ ヘルンと書かれていたそうです。当時の島根県の役人も相当の英語力だったと想像します。
だからこそ外国人の英語教師を招いたんですね。失礼しました!
八雲は、「へるん」が気に入りその後は、自分でもそう言っていたそうです。「小泉八雲旧居」は少し前までは「ヘルン旧居」と呼ばれていました。
あと「へるんヨウカン」が思いつきます。八雲が好んだようかんで、東京へ行ってからも取り寄せるくらいだったそうです。甘さ控えめのわりとさっぱり感があります。
また、晩酌は、ビール大びん1本だったそうで、毎日女中さんが、買いにこられていた。とは、江戸時代から薬局をされているお店の方から伺いました。当時は、ビールは薬局で売られていたのも驚きです。ちなみに銘柄はアサヒです。
ところで、八雲は、旧制松江中学の英語教師として赴任しました。その時の月給は、100円でした。これは、県知事の次に高い月給でした。
その後、熊本の五高では、松江での倍学の200円でした。家賃は11円。 校長の年収が1800円だったそうですから、八雲のほうが多くもらっていたわけです。
ちなみにその時の校長は、あの柔道の加納治五郎でした。少しミスマッチな感じがしますね。
八雲は、松江でセツさんと結婚しましたが、実家に仕送りをしていたそうです。給料が安いので、松江は住みやすかったが、仕方なく転勤(?)という噂もあります。
やっぱり、へるんさんも背に腹はかえられなかったようです。
その後は、神戸を経て、東京大学では、450円の月給をもらっています。とんとん拍子に出世したようですね。
このようなお話を聞きながら、へるんようかんを味見したり松江をおちらと歩きをしています。新型コロナ感染が発症する前の事ですよ。
それにしてもガイドさんは、こぼれ話をよくご存じです。
例年なら、8月頃の夜には、松江市内のお寺で、八雲の怪談噺を聞く会などももようされるのですが、今年はどうでしょうか?「水あめを買う女」などの怪談噺を聞いたあとのお墓に行って帰るなどは、ご勘弁ですね。肝試しや真夏の夜の涼みのひと時を過ごすのもいいのではないでしょうか。
以下に「飴を買う女」を引用しておきますので、少し涼んで下さい。
「飴を買う女」
松江市中原町にある大雄寺の墓場にはこんな話がある。
中原町に、水飴を売っている小さな飴屋の店があった。水飴というのは、麦芽からつ
くった琥珀色の糖液で、乳のない子あたえるものである。
この飴屋へ、毎晩、夜が更けてから色の青ざめた女が白い着物を着て、水飴を一厘買
いにくる。飴屋は、女があんまり痩せて、顔の色が悪いものだから、不審に思って、
新設にたびたび尋ねてみたが、女は何も答えない。
とうとう、ある晩のこと、飴屋は物好きに女のあとをつけて行ってみると、女が墓場
へ帰ってゆくので、飴屋は怖くなって家へ戻ってきました。
そのあくる晩、女はまたやってきたが、その晩は水飴は買わずに、飴屋に自分と一緒
に来てくれといって、しきりに手招きをする。そこで飴屋は、友達と語らって女の後
について墓場へ行ってみた。
とある石塔のところまでくると、女の姿がぱっとかき消えた。すると地面の下から、
赤児のなき声が聞こえる。それから、みんなして石塔を起こしてみると、墓の中には
、毎夜水飴を買いに来た女の骸(むくろ)があって、そのそばに、生きている赤児が
ひとり、差し出した提灯の火を見て、にこにこ笑っていた。
そして、赤児のそばには、水飴を入れた小さな茶碗がおいてあった。この母親はまだ
ほんとに冷たくならないうちに葬られたために、墓の中で赤児が生まれ、そのために
、母親の幽霊が、ああして水飴で子供を養っていたのである。――母の愛は、死より
も強いのである。
(出典 平井呈一訳「小泉八雲作品集」)