出雲人にとって気になるいつから「出雲」だったのか!
ハダル@矢野です。ここのところめっきりと秋を感じるようになって来ました。もう30℃超えもないかなあ!
さて、「出雲」はいつから「出雲」だったのでしょうか?地元に住んでいても気にする人は少ないと思いますがそこはそこで気にする私です。
実は相当前から「出雲」と呼ばれていたらしいのです。相当とは古代のずっと昔という事です。日本でまだ文字らしい文字が浸透していない時代のことで、はっきりしたことは分からないというのが答えなんですが、、、。
出雲の遺跡である荒神谷や加茂岩倉の両遺跡から出た大量の青銅器を目の当たりにすれば、弥生時代にかなりの力を持った勢力がいたことは、誰でも想像はつきます。ただしそれを「出雲」と呼んでいいのかは、別の話です。
その青銅器群が並ぶ出雲市の古代出雲歴史博物館で、面白い企画展が開催されています。そのテーマは、「古墳は語る 古代出雲誕生」です。島根県東部としての「出雲」の枠組みができる過程を、考古学の立場から丁寧に追ッています。古墳時代後期の6世紀。巨大な前方後方墳をまつった現在の松江市周辺と、ヤマト伝来の前方後円墳を築いた出雲市周辺の二大勢力が、徐々に一つの「出雲」になっていきます。会場ではその過程を遺物の特徴などからひもといています。宍道湖を挟んだ東西の地の競争が1500年前にも垣間見えるのは、非常に興味深いところです。
倉吉市で出土した出雲式の子持ち壷(つぼ)や、米子市淀江町で見つかった入れ墨のある武人のはにわなど、鳥取県の遺物も数多いですね。また、大国主命の奥さんは沢山いたのも周知するところですが、西は福岡県から東は新潟県までいたといいます。日本海側はほとんどが出雲の国の勢力下だったとも考えられるのです。古代出雲は、島根県東部に限られたブランドではないのかもしれませんね。まして出雲国と伯耆国など同じ国のようなものだったのかもしれません。
こんな事に興味があるのは私だけでしょうか・・・。