「矢切りの渡し」ではなく「矢田の渡し(やだのわたし)」は風土記の風景?!
ハウル@矢野です。
今回は、「矢切りの渡し」ではなく「矢田の渡し(やだのわたし)」は風土記の風景?!という話題です。
水の都松江市は、宍道湖と中海を結ぶ大橋川で南北に分断されています。
現在は、6本の橋が架かり、「矢田の渡しもご多分に洩れず廃船の聞きにあります。
この渡しは、南岸の松江市矢田町と同市朝酌町とを結んでいます。
古代は、橋もなく、渡し船が唯一の交通手段であったと考えられます。
時代劇でよくあるシーンの「おーい!船が出るぞー!」で出港していたに違いないでしょうね。
渡しの距離は、120mで所要時間は約1分です。
平成10年までは、軽乗用車が1台乗れる日本一小さいカーフェリーでした。また、高校生が自転車と乗船している様子をよく見かけたものです。
橋が4本5本と増えるたびに利用客は当然に減少していきました。
現在は、矢田渡船観光事業組合が松江市から補助金を受けて運航しています。船は左岸(北側)に待機していて、右岸(南側)からの利用者は、渡し場にある赤色の回転灯を点けて対岸の渡し船を呼ぶ仕組になっています。運賃は、人は40円、自転車は50円で定員は28人です。
さて、出雲国風土記が編さんされた733年当時、現在の松江市中心部には入り海が広がり、大橋川を挟んで南北の両岸が最も近かった場所が、松江市朝酌の南側一帯でした。
島根郡朝酌郷(しまねのこおりあさくみのさと)といい、川の南側に意宇(おう)平野と出雲国府がありました。北側の島根半島には隠岐への航路の起点となる千酌駅(ちくみのうまや)があり、朝酌が国府から隠伎国に至る交通の要衝に位置したことが分かります。
川を渡る地を出雲国風土記は「朝酌の促戸の渡(わたり)」と記しています。
促戸は瀬戸で、海峡の狭まった所という意味です。船が用いられ、朝酌町と対岸の矢田町の間で船が往来する「矢田の渡し」が古代の名残をとどめています。
出雲大社に隣接している島根県立古代出雲歴史博物館には、1300年前に編纂の出雲国風土記に、記された、朝酌の促戸の渡一帯の様子を活写しています。
「浜辺は人々で騒がしく、家々もにぎわって売り買いの人が近在から集まり、自然に市場を成しています」。
朝酌の市場を模型で再現したコーナーには、タケノコやカブなどの野菜を売る女、右手に掲げたスズキを売りさばこうと威勢良く声を出す男。アワビやシジミといった日本海と汽水湖双方の恵みや、鉄の鎌、薬草などもあり、現在に通じるような市場のにぎわいと人々の暮らしぶりが一目で理解できます。
歴史好きの筆者には、古代の反映が目に浮かんできます。
また、新しい渡し船は、「矢田の渡し号」と命名され、朝の渡し以外の時間には、大橋川の観光遊覧船として運行しています。
遊覧のご希望の方は、下記までお問い合わせ下さい。
松江市朝酌公民館
〒690-0834 松江市朝酌町92-1
TEL:0852(39)0646 FAX:0852(39)0690
[運営] 矢田渡船観光事業組合