松江藩にもジャンヌ・ダルクがいた?!
ハウル@矢野です。今回は、明治維新に活躍した松江藩のジャンヌ・ダルクの紹介です。
その人の名前は、玄丹かよ げんたん・かよ天保13年(1842年)~大正7年(1918年)といいます。
お加代は、もと松江藩士で鍼医・錦織玄丹の娘として生まれました。
明治維新のとき窮地にたった松江藩のために、身を挺して活躍した女性です。
慶応4年(1868)山陰鎮撫使一行は、松江藩が徳川の親藩(松平家)であるため、その動静に不信を抱き、更に種々の行き違いがあって松江藩に3か条の難問題をつきつけ、ために家老大橋茂右衛門は切腹して謝罪することとなりました。
藩はこの対策に苦慮し、松江入りした彼らのいうままであったが、この時これら荒武者を酒席で操縦し、一行の態度を和らげて出雲女の義侠心を発揮したのが彼女です。
白刃に貫いたかまぼこを平然と紅唇に受けたとか、幹部に迫って家老のいのちを助けたなどが伝えられています。
郷土を守るために、「一大事となれば一身を捧げて対処する」とい信念の基、藩の窮地を救ったのです。
会津藩の山本八重のように銃の名手だった訳でもありませんが、いざとなれば命を惜しまない勇気ある行動には、出雲女の芯の強さを感じます。
この功績を後世に残すために宍道湖畔の白潟(しらかた)公園には、お加世の胸像が建てられています。
また、減反田を玄丹にかけた玄丹そばの栽培が松江市郊外の田んぼで始まりました。
生産農家、そば職人、製粉会社、商工会議所、松江市などが「松江ならではの出雲そばを作りたい」と始めたものです。
スローフードの時流に乗って地元産の玄丹そばを使うそば屋も増えてきています。また、玄丹そばを素材としたそば焼酎もお目見えの予定だそうです。
松江のジャンヌ・ダルク玄丹かよがそばの名前を借りて松江に出雲女の心意気を継承しています。
是非、一度ご賞味下されば、出雲女の一大事にはという勇気が少しばかりは味わえるかもしれませんよ。