江戸時代の町火消しはボランティアの消防団ではなかった!!
ハウル@矢野です。9月に入り気温も30℃を下回り朝は長袖でないと寒いくらいの松江市です。
さて、9月1日は皆さま、ご存じのように「防災の日」ですね。この週は防災週間で各地で各災害を想定した避難訓練が開催されています。地元の訓練には積極的に参加して同地域に障害を持った人も生活している事を知ってもらう良いチャンスです。また、避難リュックの中身の点検をする良い機会ですので非常食など、賞味期限があるものは取り換えておきましょう!携帯ラジオや懐中電灯の乾電池も勿論です。
ところで、時代劇の「暴れん坊将軍」でお馴染の「め組」という町火消しはこの時代の消防団ですね。テレビではあんまり通常はこれといって仕事をしてはいないように見受けられますが実際のところはどうだったのでしょうか?
町火消し組織は江戸時代に入ると割りとすぐに組織されたようです。特に8代将軍徳川吉宗の享保の改革では町奉行の大岡越前に命じて火消し組織も改革したようです。
江戸107町の火消しは、ボランティアの消防団組織ではなく一人ひとりの火消しにきちんと給料が出ていました。町奉行からではなく江戸の町の費用で運営され、たとえ火事がなくともちゃんと支払われていました。
ただし、その額はかなり安く、ヒラの火消しで一ヶ月に450~800文程度。1000文を2万円に換算すれば、9000円から1万6000円程度でしかなかったようです。一番給料の高い纏(まとい)持ちでも2~3貫文、現代のお金に換算して4万円から6万円といったところだったようです。ほかに役得として、湯屋や寄席、芝居がタダになることもあったようです。これは、給料が安いのだから、町人たちからせもてものサービスといいったところだったようです。そんな給料で暮らしていけたのは、彼らには鳶職という本職があったからです。火消しはアルバイトのようなものにすぎなかったので、安月給でもやっていけたのです。
また、彼らが安月給でも火消し業に励んだのは、町火消しならではの魅力があったからです。町火消しが火事に恐れず飛び込んでいくさまは、江戸っ子気質に響くものがあり、彼らは一種のアイドル的存在でもありました。
とくに各組の組頭は、相撲力士に並ぶ、江戸の花形とされました。「め組」の頭の北島三郎は町内からは一目おかれていた訳ですね。花形として脚光を浴びる快感があったから、給料の安さはさほど大きな問題ではなかったようです。
では、江戸ではどのくらいの火事があったのでしょうか?
慶長6年(1601年)から慶応3年(1867年)の267年間に大火だけで49回、小火も含めると1798回もの火事が発生しました。
当時の町火消しは江戸全体で約1万人で構成されていました。今でもとび職は構想ビルや瀬戸大橋など高所作業ので鉄骨などの組み立てなど花型ですね。また、保存会では正月や結婚式などのお目出度い席でのきやり歌を拾うしていますね。
時代劇も当時の時代背景を認識しているか否かで面白さが増しますよね。
「防災の日」にちなんだ話題でしたが少し本筋から反れたようです。